選択と失敗と:人生はその絡み合いである。
「子どもに、できるだけ自分で選ばせるようにしましょう」
とは、育児書などに度々書いてあること。(自立とか自律を促す文脈で。)
いつかは朝着ていく洋服も自分で選ばせよう、と思うけれど、
今はまだちょっと怖くて任せられない…(オットにも任せるのは怖い)。
とりあえず、ムスコ(4歳)が、今、日常的に選んでいるのは、
毎食の「デザート」である。
そう、我が家の食事は、贅沢にも(わたしはこれは贅沢だと思っている)、必ずデザートで終了する。
たとえ、「納豆ごはん」みたいなシンプルな食事だったとしても、
「デザート」がついてくる。
どんな食事でも、もはやフルコースである。
その習慣の良し悪しはわからないけれど、フランスならチーズとデザートは食事とは別についてくるものだし、まぁ、いいか。
と、多少フランスかぶれなハハは、流れに身を任せています。
(適切な「ごはん」を食べたうえで、ということは、ルールにしていますが。)
さて、毎食のデザートは、レストランのメニューよろし、選択肢の中からムスコが選びます。
大体のレパートリーは、
・果物(2種類くらい)・・・みかんとか、ぶどうとかいったもの。
・スイーツ(1〜2種類)・・・これはイベントにより変動。オット出張のお土産や、頂き物、季節の行事の残り物、何かのご褒美で買ったものなど。
・ドライフルーツ・・・プルーン、アプリコット、イチヂクなど。
・チーズ・・・最近は「明治北海道十勝ボーノ切り出し生チーズ」がお気に入り。
この中から1つ。
なお、特殊ルールとしては、果物・スイーツに、ドライフルーツまたはチーズは組み合わせ可。
ムスコは、いつも嬉々として、「きょうのデザートなにしよっかなー」と言いながら、わたしのメニュー発表に耳を傾け、「じゃー、きょうはみかんとチーズにする!」とか言って張り切って決める(食べる)。
さて、この週末。
珍しく、ムスコと一緒にデパートに出かける用事があったので、デザートを買って帰ることにした。
(「つかれた〜」と抱っこを迫るムスコへの「がんばって歩こうご褒美」として、でもある。)
まず、デザートの種類を、彼に決めてもらうことにした。
選んだのは、「アイスクリーム」。
テイクアウトのアイスクリームを販売しているのは1店舗しかなく、そのショーケース前でしばし立ち止まる。
ムスコは、吟味の結果、「これにする!」とチョコレート味を選択。
ただ、シンプルなチョコレート…というのでなく、チョコレート&パッションフルーツというちょっと変わった組み合わせだったので、口に合うかしら?と懸念したわたしは、その隣にあったストロベリーを薦めてみたけれど、彼の心動かず。
一応、保険的にそちらをわたしの分として購入。
そして、待ちに待ったデザートタイム…
そろりそろりと蓋を開け、ちびりちびりと念願のアイスクリームを食べ始めたムスコ。
しばらくして、わたしを覗き込み、
「ママの、おいしい?ちょっとちょうだい?」
ぱくっと一口。
そして、うーんと後ろに仰け反り、頭に手を当て、苦笑いを浮かべながら、
「ストロベリーのほうが、おいしいなぁ…」
と。
「あれ、チョコレートの、美味しくないの?」
「うん…そうね…おいしいんだけど、ストロベリーのほうが、おいしいなぁ…。」
そして、一言、照れ笑いを浮かべながら、大きな声で、
「しっぱいしちゃった!!!」
「ほらー、だからママの言う通りに(ストロベリーに)すればよかったでしょー!」
と、言いたい気持ちをぐっと抑えつつ、
ハハは内心、ムスコの中に、もう立派に、
「失敗した」
という自覚があるんだということに驚いて、ドキドキ。
食べたいと思って選んだもの。
だけれども、思ったような味じゃなかった。
迷って、選ばなかった方が、美味しかった。
という、失敗。
わかる、わかるよ、その失敗!
食いしん坊のハハには、よくわかる。
ランチで何にしようかなと迷った挙句、あんまり、「ドンピシャ」じゃなかったときの、自分へのちょっとした失望。
「そっかー」と、そのままにしてもよかったのだけど、
彼の口から「失敗しちゃった」というワードを聞いて何だか心が揺れ動いたわたしは、自分の食べかけのストロベリーと、彼の食べかけのチョコレートの交換を申し出た。
これって、ただの甘やかし?かもしれないけれど、
「え、いいの!?」
と思いがけない提案に目をキラキラさせて喜んでるムスコに、
まぁいいかと、食べさせたのでした(はい、甘やかし)。
そんなやりとりをしていたら、自分の子どもの頃の「選択」と「後悔」の原体験的な記憶が突然に蘇ってきた。
多分、今のムスコと同じくらい、4歳とか5歳とか、そういう頃の記憶なんだと思う。
田舎の祖母が、女の孫らにお正月用の着物を仕立ててくれる、というので、
反物を選ぶ機会があった。
わたしは、黄色い反物を選んだ。
だけれど、実は黄色い着物はすでに1枚持っていて、
親としては、赤やピンクの他の色を選んだらいいのになぁと思っていたらしい。
「また黄色を選んじゃったのー?持っているのに…」
その、黄色い手鞠柄の着物を着ている自分の写真を見るたびに、
そう言われたときの悲しい気持ちが思い出されて、ずっとずっと切なかったこと。
自分が選んだものが、「正しくなかったかもしれない」ということで、
とても不安になってしまったこと。
もしかすると、
自分の選択=自分のハッピー、という単純な選択の図式から、
自分の選択=自分のハッピー≠誰かのハッピー、という複雑な社会(その最小単位としては家族)への気づきを得た、最初の経験だったのかもしれない。
単純な選択から、
そういう複雑な選択へとステージを変え、
一つ一つの失敗(と思うこと)や成功(と思うこと)が、今日まで脈々と続いて、
わたしの人格やら人生をつくっているのだと、なんだか妙に感じ入った。
ムスコの毎食のデザートの選択も、
大逸れたことを考えてやらせているつもりはないけれど、
自分の日常を選び取るという行為、そして、失敗や成功、快・不快といった体験をつくっているのだろう。
(だから、育児書にも、「選択をさせよ」と書いてあるのでしょう。)
そのうちに、
彼ももっと複雑な選択肢に出会い、
親や友人、恋人、恩師、先輩・後輩などなどの関係性や、
環境的なこと、金銭的なこと、その他様々な制約の中で選ばなくてはならないことが出てくるのだろう。
アイスの味で一喜一憂していた頃のことなんか、忘れてしまう頃に。
なんだか、人生これから大変だな、ムスコよ。
そのとき、自分はどのように、彼の選択に影響するのか。
願わくば、あまり害のない感じで存在していたいけれど、こればっかりはわからない。
例えば悩んでいる未来の彼に、どういう言葉をかけるかも、その瞬間の、わたしの選択。
そして「あー、失敗した」とか、思ったり、後悔したり、するのかもしれない。
自分の選択、お互いの選択、その失敗や後悔や、もしかしたら「ちょっとうまくいったな」という満足。
そんなこんなの絡み合いが、わたしたちをつくっている。
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