芸術スポーツ論〜序章〜
「芸術スポーツ」って存在すると思うけど…
「新体操はフィギュアスケート、シンクロナイズドスイミングと並んで芸術スポーツである」私が小学生の頃に、指導者の先生に教えてもらった記憶があります。幼いながらこの言葉に信憑性を感じ、「新体操は芸術スポーツの一つだ!」とずーっと思っていました。しかし、大学院生になってスポーツ研究に携わってもそのような記述はほとんど見当たらない。しかも、大学院に入ってすぐに読んだ『スポーツ美学』(樋口聡・1987・不昧堂出版)という本には、「スポーツは芸術ではない」なる記述が…。(しかも「新体操などの競技も例外ではない」というはっきりとした記述もあります。)
「スポーツは芸術なのか」論争については後ほど記述するとして(第3章 スポーツは芸術なのか論争)、結論から申し上げますと、スポーツはやっぱり芸術ではない。ただこれは決して悪い意味ではなく,芸術という枠組みに入りきらないということであり、またスポーツには芸術的な側面はあるとは言えるだろうという見解なのです。
これまで私が信じてやまなかった「新体操は芸術スポーツである」ということ。これはつまり、芸術色の強いスポーツの一つであるという解釈が正しいのだろうと感じます。
フィギュアスケート人気にあやかって
昨今のフィギュアスケートの熱狂ぶりには感心します。私自身も、羽生選手の一ファンで、部屋に写真を飾っているほどです。
フィギュアスケートの人気の要因は、きっかけこそ世界で戦える日本人選手の登場であったかもしれませんが、やはり“芸術性“にあるのではないかと考えます。音楽に合わせて、美しい衣装とともに、選手の一挙手一投足から感じられる「思い」が伝わってくる。選手の内面にある密かな思いが、演技によって露わになり、そしてそれは見ている観客の感動に繋がります。そこにある美しさは、陸上で見られる肉体美や、球技に見られるドラマ性とは違ったものでしょう。
選手の見えない内面が身体表現によって見えてくるということは、私たちが美術作品を見たり音楽作品を聞いた時に感じるものと似ているのかもしれません。
これが、“芸術スポーツ“と呼ばれ、観客を引き込む一つの要因になっているのでしょう。
フィギュアスケートの人気ぶりを見ていると、新体操だってもっと楽しんで見てもらえるんじゃないか?と思うのです。
そこじゃないんだけどな…と思う
最近は、フィギュアスケートの中継の様態にも変化が起きているように感じます。はっきり言ってしまうと、メディアはフィギュアスケートのことを分かっていない。(多分私もまだまだわかっていないんだろうと思いますが…。)
フィギュアスケートの中継の様子を見ていると、大技ばかりに注目しているように感じます。ジャンプが何回転なのか、失敗しなかったか。さらには、そのプログラムがスケートリンク上でどのような軌跡を描いていて、速度はどれくらいだったのかというところまでデータ化されている。つまり、数字が増えたなと感じます。
確かに、フィギュアスケートは採点競技。勝敗は点数で決まることから、どれくらい点数を稼げたのかという点が競技スポーツとしては重要です。
ですが、数字に囚われすぎて、本来最も楽しみたい魅力ある部分を見る視点が損なわれているのではないでしょうか。メディアの誘導により私たちはフィギュアスケートを本当の意味で楽しめていない、そんな気がします。
復活の高橋大輔
そんな状況の中、本当の意味で魅せてくれた!と感じたのが、昨年復活を遂げた高橋大輔(以下大ちゃん)です。
フィギュアスケートがテレビ中継されるようになって、〇回転サルコウがどうだとか、男子は4回転だとか、いかにジャンプをたくさん跳ぶかということに注目されている中、昔から大ちゃんの見せ場は“ステップ“でした。「待ってました!」と言わんばかりの手拍子がステップで起こり、そこに観客は引き込まれる。私たちは昔から大ちゃんの芸術性に惹かれていたのです。
昨年の全日本選手権では、引退してブランクがあった身体であったこともあり、ジャンプは完全なものにはなりませんでした。しかしあの演技からはジャンプだけじゃない芸術的なフィギュアスケートを感じました。何だか、久しぶりに“色のある“演技を見たような感覚になりました。
これまでジャンプばかりに囚われていた見方が、そうではない、芸術としてのフィギュアスケートなんだということに気付かされた演技でした。
芸術性を見失うことのないように
これまでフィギュアスケートから、その芸術性について簡単に見てきました。私たちはメディアの見方に大きく影響を受けますが、そのメディアはフィギュアスケートの数字ばかりに注目している。勝敗が伴う競技スポーツとしては正しい見方なのですが、もっと違う見方ができるということがフィギュアスケートをはじめとする芸術スポーツの良さだと感じています。
スポーツをしている以上、やっぱり勝ちたい。でも、勝てばなんでもいいのか?芸術スポーツとしては、芸術の側面を蔑ろにして勝負することは納得のいかないことであり、また芸術の側面を見てもらえないことは非常にもどかしいことでもあります。
採点スポーツとして、どのくらい点数が稼げて順位はどうであったのかということに注目することも必要であると感じます。しかし、実践する者も観戦している者も、点数だけに注目しているのではもったいないほどに、芸術的な魅力があると、私は感じています。
これから、芸術的な要素を多く含むスポーツは、その芸術性を担保できるのでしょうか。ルール上だけでなく、観戦(鑑賞)という側面でも。
「芸術スポーツ」という論を企てることは、この芸術性を担保するという点において、有用性があるのではないかと感じています。
この論から、芸術スポーツのもっと深い楽しみ方が広がればいいなと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
次回は第一章 「五輪の芸術競技について」をお送りします。
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