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踊りで思いが伝わるとはどういうことか?

 私は社会人で趣味で新体操をしながら、踊ること、新体操を含むアーティスティックスポーツについて細々と研究をしています。最近の関心事は、「踊りで伝わるもの」「踊りを見てわかるということ」ってどういうことだろう?ということです。(ということ だらけ)

 まだ答えは出ていませんが、自分の経験や知っていることを紐付けながら考えてみたいと思います。

自分の踊りで思いが伝わった経験


 昔、こんなことがありました。
 中学生の頃、この試合で結果を残せば全国大会に行けるかも!ということがありました。ちょうど全国大会が地元開催で、その分枠があり、そこにハマるかもしれない!という状況でした。正直、団体競技で全国大会には出場できても、私一人の力では全国大会は難しかったのですが、千載一遇のチャンス到来!であったわけです。
 結果としては、大きなミスもなく予想通りの成績で、千載一遇のチャンスをものにしたわけですが、試合後先生からこんなことを言われました。

 「今日のあなたの演技は、全国大会に行きたい!行くんだ!という思いが伝わってきた」

 確かに、私は「全国大会へいく!」という思いを持ちながら演技をしていました。それがそっくりそのまま伝わっていたのもびっくりですが、もちろん、全国大会に行きたいということを全面に伝えたかったわけではありません。
 新体操は表現スポーツ、芸術スポーツ、アーティスティックスポーツ。芸術性や美しさが問われる競技です。本来、そこで表現されるべきは、演技の音楽性、世界観、自分らしさです。そこを差し置いて、私のどストレートな思いが伝わったというのは、なんだか複雑な感じでした。

 さて、私は演技中に全国大会に行きたいと言った訳でもなく、事前に表明していた訳でもありませんでした。では、なぜ私のその思いは伝わったのでしょう?

踊りで伝わる「虚の力」


 ここで急に、舞踊論、現象学の話になりますが、「踊る」ことを例に挙げながら簡単に考えたいと思います。ここでは、『冒険する身体』(石渕聡)という本を参考にしました。
 本書の中で、ランガーという芸術論者を取り上げています。その人は、芸術が伝えるものについて、以下のように述べています。

 芸術はその中心概念に「虚」を持っている。

『冒険する身体』

  「虚」というのは、「幻影」「想像の世界」と捉えます。例えば、音楽は「虚の時間」を見る人に与える。絵画であれば「虚の場面」を見る人に与える。これは、聞いたり見たりしているものはそこにある「音楽」や「絵画」であるけれども、私たちが実際に感じて受け取っているのは、「音楽が作り出す独特の時間」「絵画がもたらす独特の場面」であるということです。この時間や場面は、聞いたり見たりしている私たちが勝手に想像したもので、この想像の世界のことを「虚」と言っています。

 では、踊りは虚の何でしょうか。踊りは「虚の力」です。

 例えば、バレリーナが踊っています。バレリーナは軽々とつま先で立っているように見えます。しかし、実際は軽々と立っている訳ではありません。トゥシューズが履けるようになるまで、訓練が必要ですし、実際に舞台に立っているバレリーナも軽々と立っているのではなく、体の至るところに力を入れて立っています。軽々と立っている「ように見える」のです。
 もう一例。新体操選手が技をします。フープを投げて3回転してキャッチです。見ている観客は、まるでフープが体に吸い込まれていくように見えます。しかし、実際は何度も練習を重ね、自分の思うところでキャッチできるように訓練しています。投げた後も、キャッチできるところまで行けるように調整しています。フープが体に吸い込まれている「ように見える」のです。
 このように、「ように見える」ことこそが「虚の力」だと言います。見ている人は、そこで実際に起きていることを見つつ、自分が想像した「〜に見える」世界を見ているということです。

なぜ私の思いは伝わった?

 この「虚の力」を踏まえて、なぜ私の思いが伝わったのか考えてみます。
 簡単に言うと、私の思いがパフォーマンスに現れ、それが虚の力に乗って見ている人に伝わった、ということになるでしょうか。もう少し詳しく考えてみます。

 虚の力を伝えるのは、踊っている人の「身振り」からです。この身振りは、普段の生活で使われる身振りとは異なるもの、と石渕さんは言います。
 日常では、日常の言語によってやりとりを行います。言葉もそうですが、「身振り」(「動き」と考える方がイメージしやすいかも?)も、日常の文脈の中で理解されるものです。しかし、踊りの世界では、その身振りは日常の文脈とは異なる意味で理解されます。
 例えば、「手を挙げる」という身振り。これは、手を挙げる=何か用事がある、自分と名乗り出る、と考えることができます。しかし、踊りの中で「手を挙げる」と、そういった日常での意味は無くなります。天を仰ぐイメージかもしれないし、そもそも意味がないこともあるかもしれません。
 このように、踊りの中では、日常とは違う文脈が流れていて、日常とは違う次元で身振りを理解しなければなりません。

 自分の話に戻ります。「全国大会に行きたい」ということを日常の次元で捉えたとき、それは「言葉にする」「努力を重ねる」という行為でその思いをとらえることができます。「身振り」で考えると、上むきに人差し指を立てるとか、グッド👍とか、そういうことが考えられるでしょうか。
 しかし、踊りの中ではそうした身振りは必要ない、というかできないでしょう。特に、新体操はすでに与えられた演技をするので、自分の思いを表明できる自由な身振りはないのです。
 とすると、私が新体操のパフォーマンスをする、その身振りの中で、見ている人が「全国大会に行きたい」というエネルギーを感じた、ということが考えられます。これは言語とは違う次元で捉えられるものなので、言葉にするのが難しいのですが、無理やり言葉にするならば、新体操のパフォーマンスの様々な身振りから、見ている人が「全国大会に行きたいという思いがある」と想像した、ということになるでしょうか。(様々な身振り、というところが言葉にできないところで、自分の中でも明らかになっていないところなので、また考えます。)

 観客の立場から考えるとそういうことになると思われますが、踊っている自分の立場でさらに考えてみたいと思います。
 実は、この時の心持ちを今でもよく覚えています。

 この試合の1年前、私は新体操に身が入らず、結果も出ないという状況にありました。心ここにあらず状態で新体操をしていましたが、いつの間にか心が戻ってきたのがこのシーズンでした。心が消える前の、何も考えなくてもうまくいったあの頃、そして心を取り戻して自分を少し俯瞰できるようになった今シーズン、様々なことを思い出しながら演技をしていました。上手くできなかったことを乗り越え、できることをやる、そして全国大会に行く、自分は行くにふさわしくなれるんだと、冷静でありながらも思いきり演技していました。
 この思いは、自分の体の動き(=身振り)にも反映されていた自覚があります。ジャンプの前の「シャッセ」という動作では、思いっきり体を大きく伸ばして動きました。手具の投げ受けでは、投げた場所を冷静に見て、確実にキャッチすることを心がけました。思いを持った人間がする身振りは、普段とは違うことを感じました。(体感なので、見ている人からすると微々たる変化かもしれません。)

 おそらく私の思いは、身振りの様々なところで「大きさ」「冷静さ」などのポジティブな身振りとなって、虚の力となって、見ている人にも伝わったんだと思います。そして、その身振りを見た人も、その虚の力を受け取り、私の思いを想像したんだと思います。

思いが伝わる演技のために

 ここまで私の経験と共に、踊りが伝える「虚の力」について考えて見ました。ですが、私が伝えた「思い」は、踊りにとっては適切でないと思います。本来伝えたいことは演技の物語性や音楽性であるからです。さらに、踊る人は、踊っている時は何かになりきっているものです。なりきるということは、自分ではない何者かになっているということであり、自分ではない何者かが感じていることを表現するということです。こうした時、先ほどの私の例は「なりきる」ことが欠落していて、踊りで何かが伝わることを考えるのに十分でないことがわかります。
 踊る人は、どういう思いを持つべきなのか、そしてその思いを伝えるための身振りにはどのようなものがあるのか。そもそも演技で物語性や音楽性を伝えることが正しいのか、どうすればそれが表現できるのか。考えないといけないことはまだまだ山盛りなので、これからも頑張ろうと思います。

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