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新体操を理解し、楽しむために必要だったことー新体操の美とは?-

 今回、改めて新体操の「美」について考えるのは、今までの自分の考えを整理し次に進むためであることと、町田樹氏の『若きアスリートへの手紙ー〈競技する身体〉の哲学ー』(山と渓谷社、2022)を読んで感化されたためであることの2つの理由があります。

 自身の今までの新体操経験と学んできた「スポーツ哲学」をもとに、「新体操の美」とは何かということについて考えてみたいと思います。

考えの起点ー新体操が楽しくなかった競技時代ー

 私が新体操をはじめたのは5歳のころ。小学1年生のころから試合に出場させてもらい、遠方への引っ越しを経て、様々な試合に出場することができました。一方で、試合に出場すればするほど、様々な呪縛にとらわれていきます。いつからか、新体操は「義務」としてやっているものになり、「言われたから」「自分ではなく誰かのために」「勝つために」しか取り組むことができなくなっていました。
 また、新体操は「表現スポーツ」「アーティスティックスポーツ」ともいわれます。つまり、ダンスのように自己を表現し、芸術性のある演技を披露するものです。しかし、私は新体操で自分を表現したと思えません。自分の演技が芸術的であったとも思いません。確かに、音楽に合わせて動きをし、音楽にあった表情で演技をしましたが、それは振付した人(コーチ)の演技をしているだけであって、それを自分のものとして落とし込み、本心で演技をすることができていなかったのです。
 これまで何度も自分の競技人生について深く反省する中で、新体操が楽しくなかった要因の一つに「新体操の魅力や本質を味わえていなかった」ことがあるという考えにたどり着きました。魅力や本質とは、「自分を表現すること」「新体操の美を知り、体現すること」であると考えています。
 今新体操やアーティスティックスポーツ、さらにダンスに向き合っている人に私のような経験をしてほしくない、その文化の表面だけでなく神髄まで知ってほしい、と思っています。

 では、「自分を表現すること」「美を体現すること」とはどういうことなのでしょうか。

①自分を表現すること

 「表現」という言葉を辞書で調べてみると、

ひょう‐げん〔ヘウ‐〕【表現】
の解説
[名](スル)心理的、感情的、精神的などの内面的なものを、外面的、感性的形象として客観化すること。また、その客観的形象としての、表情・身振り・言語・記号・造形物など。「情感を—する」「全身で—する」
[補説]representationおよびexpressionの訳語。

goo辞書 https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E8%A1%A8%E7%8F%BE/

 簡単に言うと、自分の内面にあるもの(感情や思い)を、外面に現すことであると言えます。新体操での表現は、「自分の思い(内面)を身体での演技によって(外面に)現すこと」と言い換えることができます。
 私は、演技をするにあたり、そもそも自分の思いというものが薄かったことに気づきます。では、この「自分の思い」に当てはまるものって何なんでしょうか。

 「この試合に勝って全国大会へ行きたい」「あのライバルに勝ちたい」これも思いではありますが、理想としてはもっと演技の世界観に密接にかかわる思いを持つのがよいと思います。つまりは、「この演技のコンセプト」。コンセプトは、自分の演技で使用する曲をもとに決定されるのではないでしょうか。

『若きアスリートへの手紙ー〈競技する身体〉の哲学ー』で、町田さんはこのように述べています。

アーティスティックスポーツの世界にとって、「はじまり」とはいったい何であるだろうか。(中略)それは、「音楽」である。

『若きアスリートへの手紙ー〈競技する身体〉の哲学ー』

 新体操の演技を構成する際、そのインスピレーションのもとになるのは音楽です。例えば、タンゴの音楽ならタンゴっぽい動きを入れたり、バレエ音楽ならバレエの動きを取り入れたりします。表現のすべては、音楽からはじまります。
 さらに町田さんは、アーティスティックスポーツやダンスにおいては、音楽の様々なものを表現するといいます。音、曲の持つ感情、曲の背景の物語…。音楽の表現に関する詳細な検討はまた別で行うこととしますが、この音楽を表現するためには、「音楽を理解する」ことが必要であることがわかります。
 私は、与えられた音楽を聴いて、音に合うように演技はしましたが、(いわゆる音ハメ)、それ以上の努力をしていなかったことに気付きました。この曲はだれの何の曲であるのか。クラシック音楽なら、その曲が作られた時代背景、作者の置かれていた状況。映画音楽であるなら、どのような映画なのか、映画のどのシーンで使われているのか。音楽の理解が薄いまま、「ぽい」感じで手や表情をつけたりして踊っていただけでした。そりゃ、表面的なことしか表現できないわけですね。

 自分で音楽を深く理解し、「これを表現したい」という明確なコンセプトがあれば、もっと新体操を楽しめていたかもしれません。

②美を体現すること

 新体操は「美を追求する競技」と言われます。ここで言われる「美」とは、いったいなんなんでしょう。

 同じく町田さんは、アーティスティックスポーツでの美には2つあるといいます。
 一つ目は「形式化された美の技」。新体操で言うと技術点・実施点で評価される部分で、いかに正しい形で難度を行うか、いかに理想とされる実施を行うか、というところです。
例えば、「大ジャンプ」という技があります。この技は、①足が180度以上開いている という理想の形が見えている必要があります。さらに、②動作中に手具操作が実施されている ③足先が伸びている ④着地がしずかである… などの実施的な要素も含めて、「これは点数になる」と評価されます。この、与えられた基準をもとに正誤が問えるものが「形式化された美の技」であり、理想美を体現することが求められる技です。

 二つ目は、「創作における美の技」。これは芸術点にあたる部分で、曲にあっているか、場を満遍なく使えているか、など様々な基準が設けられています。この美は、一つ目の「形式化された美の技」に比べると、理想的な形が明記されているわけではなく、採点基準が非常にあいまいです。この理由として、町田さんは、「方法が無限に存在しているから」と述べています。使用する音楽の種類も多岐にわたり、その音楽に応じて身体の使い方も変わってきます。そりゃ、一つ一つ明記するわけにはいきませんね。

 これら2つの美が新体操における主な美であり、この2つを体現することができれば、ただ踊るだけの新体操から卒業できたということです。2つ目は、演技の構成がかかわることから、「自分を表現すること」にもつながります。

 もう一つ、重要なことを引用しておきます。

 採点競技の世界における美的探究は、何よりもまず己の競技に関する採点基準を精読し、そこで求められている美の性質を見極めることから始めるべきなのである。

『若きアスリートへの手紙ー〈競技する身体〉の哲学ー』

 長年新体操をやってきて、競技者としてかかわってきた私は、「新体操で重要なのはこういうことだ」となんとなくはわかっていました。何が理想の形なのか、どういう表現をすべきなのか、これはよくてこれはだめだということを、自分の中でなんとなく理解して練習していましたが、これはあくまでも「なんとなく」。わかっているようで、わかっていないことがたくさんあります。実際私も、採点規則は読んだことがなかったし、読もうともしていませんでした。ジュニアの時代は理解が難しいかもしれませんが、高校生くらいなら、読んでみてもよかったなあと思っています。かくいう今の私も精読はしていないので、細部までしっかり読んでみたいと思います。

新体操を楽しむために必要だったこと


 新体操の本質を知らなかったというこれまでの話に加え、さらに必要だったことが山のようにありますが、「これ!」と思ったもの2つ紹介したいと思います。

①「初期衝動」
 この言葉も『若きアスリートへの手紙ー〈競技する身体〉の哲学ー』内で使用されている言葉です。これは「『とにかく○○せずにはいられない』という激しい感情のこと」です。理屈ではなく、本能でそのものに向う状態、とも言います。
 私はこのことか書かれている項を読んで、ううっ…と胸が苦しくなりました。新体操をはじめたころは、新体操が楽しくて、もっとできるようになりたい!という向上心でいっぱいでした。なのに気づけば嫌々やっている日々…。私は競技を引退するまで、「初期衝動」を思い出さず、義務感のもと取り組んでいました。どこかで「初期衝動」を思い出せたら、違った結果になったのかな…と思います。はじめたときの、純粋に楽しんでいたころの気持ちは、自分の根底に置いておきたいものです。

 ちなみに、元陸上選手の為末大さんも、著書『熟達論ー人はいつまでも学び、成長できる―』(新潮社・2023)でも、似たようなことを述べていました。

 物事への取り組みには5段階あり、そのうちの1つ目が「遊」の段階。ここでは遊びながらそのものの楽しさを見つけていく。この「遊」の段階は、その後熟達していくための基礎部分であり、スランプなどの壁にぶつかったとき、自分を助けてくれる。

『熟達論ー人はいつまでも学び、成長できる―』一部要約

 そのものをはじめたときのこと、忘れずに、いつかの自分の支えにできればよかったなあ。

②長期的目標
 はじめに、「様々な呪縛にとらわれた」と書きましたが、その最たるものが「試合で成功しなければ」という気持ちでした。ミスをしてはいけない、この試合で結果を出さなければならない、そうした気持ちは、自分をどんどん閉じ込めていきました。表現どころの騒ぎではなくなっていき、こわばった演技しかできなくなっていきました。
 町田さんは、こうした状況に対し、「長期的視野を持つべき」と述べます。
 私のような目先の試合のことしか見ていない状況=短期的視野にとらわれていると、目の前の大会が大きな目的になり、極度の緊張をもたらします。一方で、長期的視野に立つと、目先の試合は自分の大きな目的を果たすための通過点ととらえることができ、「ここでだめでも次がある」という思考になることから、過度な緊張から解放されるといいます。
 思えば、もし試合で結果が出なくても自分の人生が終わるわけでもありません。新体操をしているのは人生の一部分であり、その先にもっと大きな人生の目的があるはずです。新体操人生だけで見ても、その試合で失敗すればもうなにもかも終わりという状況は考えにくいです。
 それでも、「このメンバーでできるのは最後、チャンスはない」と思いますが、その思いが原動力でなく呪縛になってしまうならやめた方がいいと思います。

 自分を束縛しない思考を、緊張やプレッシャーをプラスに転換できる思考を。呪縛から解放して、自分を自由に表現するためにどのような思考が自分にあっているか、見極める力がほしかったと思います。


まとめ

 新体操は「美を追求するスポーツ」。このことを本質まで理解している人はかなり少ないと思います。町田さんの著書を読んで、その業界で知られている、暗黙として了解されていることを、改めて詳細に検討する重要性を感じました。新体操の「美」とは?表現するとは?芸術性とは?知っているつもりで、実は知らないことの方が多いように思います。 
 点数さえ出ればスポーツとして評価はされますが、それだけでよいのでしょうか?「光る演技」「記憶に残る演技」をするために、構成者・演技者・鑑賞者それぞれができることがあるのではないでしょうか。そのヒントが、新体操や「踊ること」の詳細な理解にあるように思います。

 そこにつなげられるような、「ダンスで表現するとは?」「ダンスで伝わるものとは?」について、さらに考えていきたいと思います。

参考文献
『若きアスリートへの手紙ー〈競技する身体〉の哲学ー』

『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』
https://www.shinchosha.co.jp/book/355231/


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