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豊かさの指標は世界だと思う

 私は常々、新体操をベースに色んなことについて考えています。新体操は「表現スポーツ」「芸術スポーツ」とも呼ばれ、勝敗が大事にされるスポーツと、表現の結果である芸術が融合したスポーツです。このような特性があるので、勝利を目指す一方、曲をもとにした自分らしい表現も必要になってきます。

 また、元新体操選手として新体操を考える傍ら、教育学を専攻する大学院生でもあり、教育について研究をしている面もあります。教育基本法第1条には、教育の目的として「人格の完成」が掲げられています。この目的に則って教育が行われているわけですが、本当に人格の完成が公教育でなされているのか、そもそも公教育の定められたカリキュラムの中でそのようなことが可能なのかという点はまだまだ考える余地がありそうです。とは言いつつ、私の教育者としての興味は「人格の完成」の部分にあり、特に「感性」や「真善美」の判断という、今のカリキュラムでは評価できないような部分にフォーカスを当てて研究をしています。

 この、新体操での表現と、教育で求められる人格の完成という2つの目的を達成するのに、キーポイントになる概念があると思っています。

 それは、「世界を広げる」ということです。

 今回は、「表現」と「人格」という2つの柱の元、私がなぜ世界の広さを豊かさの指標だと言えるのかということについて考えていきたいと思います。

新体操で表現するには?

 新体操では表現をすると言いますが、新体操選手は一体何を表現するのでしょうか。それは主に曲のもつ世界観だったり、自分の曲に対する思いだったり…表現には「曲」がベースになることがほとんどです。選手は曲をもとに自分の(自分たちの)世界を作り上げ、それを演技として表現します。採点項目にも「芸術点」というものがあり、そこで曲との調和や一体感が評価され点数になります。

 このように新体操では音楽が非常に重要な要素になってきます。このため、自分の使う曲を聴き込まなければならないということです。でもただ聞くだけでは、曲にあった表現は難しいでしょう。

 表現をするには、色んなことを知っておく・感じておく必要があります。例えば昨年大ヒットした、official髭男ディズムやあいみょん、KING GNUの楽曲は、歌詞に共感できることやノッテしまうリズム感であることが高い評価を得た要因だと思われますが、この「歌詞に共感」「ノッテしまうリズム」は、なんの経験もなしには為し得ないものでしょう。このように、新体操での表現のスタートである「曲を理解する」という段階で、ある程度の知識や経験が必要になってきます。この知識や経験が乏しいと、やはり表現されたものも浅いものになってしまうでしょう。

 表現の第一段階、曲を聴き込む前に、第0段階として知識を獲得し、様々な経験をする必要性が浮かび上がってきました。この第0段階の活動は「世界を広げる」ことだと言えるでしょう。苦いと直感で感じるカカオ90%のチョコレートも、色んなものの味を知ればその美味しさが分かってきます。昔読んだ全然理解できなかった恋愛ものの小説も、経験を重ねた後に読めば共感できるかもしれません。このように、世界を広げることによってそのもののわからなかった面を理解することが可能になります。

 第0段階で「世界を広げる」ことができれば、第一段階の「曲を理解する」ことのが高まり、最後の「演技として表現する」段階でも、その真価を発揮します。第一段階で深く曲を理解できると、自ずとその人の演技にも深みが出るものです。“理解の深さは表現の深さ“とも言いますが、理解が深いというのは、私は「頭だけでなく、身体までも理解できている」ということだと思います。身体で分かれば後はその通りに動けば豊かな演技に繋がります。身体での理解、そして豊かな表現の演技のためには、やはり世界を広げることが必要なんです。

 ちなみに、今の新体操のルールでは表現より技術が重視されています。そのため、曲を聴き込むという第一段階ですらできていない選手が多いような気がします。となれば、第0段階の必要性に気づくことは期待できません。表現について考えるのは新体操の楽しさであり見ている人にとっても魅力なのですが…多くの選手が世界を広げる必要性(というか楽しさ)に気づいてくれればいいなと思います。

人格の完成の手助けになるものは?

 教育の目的は「人格の完成」。ですが、その大きな目的を常に意識して現場に携わることができている教師はどれほどいるのでしょうか。実際現場は仕事に追われ追われ追われ続け、直接的に子どもに関わるものの中では授業作りで頑張るのが精一杯です。こんな忙しい状況で、授業や事務以外の評価しなくていい部分のことも考えろ!なんてのは無理なのかもしれません。

 というかそもそも、教師という大人が、子どもの人格を完成させるなんてできません。大人はそんなに偉くありませんし、人格の完成された姿をイメージすることもできません。

 では、子どもはどうやって人格を形成していくのでしょう。そして、その形成の過程で大人はどのような手助けができるでしょう。

 この時、大人ができることとして以下のように考えます。

自分が「ある大人」像になる/世界の入り口を提供する

 自分が「ある大人」像になるというのは、そのまま自分の世界を見せるということです。“見本“という言い方もできますが、大きな世界の中の一つの見本に過ぎないので、ここでは見本とは言わないこととします。(一例、というのがいいのかも)

 (教師だけでなく)大人は今日まで色んな経験をし、色んな世界と出会って自分を形成しています。そんな大人の1人として教師があります。決して、子どもの前に立つ教師だけがなるべき大人像であるという意識は持ってはなりません。教員養成課程では、「教師は親の次に最も身近な大人だから、子どもの見本になるような、教師らしい行動をしなければならない」と教えられますが、教師だからこうしなければならないと教えるのではなく、1人の大人になってそれが偶然教師だったという意識を持って欲しいと教えて欲しいものです。

 私の教員養成課程への物言いは置いておいて、子どもの人格完成の手助けの一つとして、教師が自分の世界を持ちそれを1人の大人像として見せる、という手立てがありそうです。

 次に世界の入り口を提供するというのは、自分の持つ世界を含め、世の中には多くの世界があることを伝える・そんな色んな世界の入り口を提供するということです。要するに色んなジャンルのものに触れるということだと思います。

 実際、子どもは私たち大人よりもはるかにアンテナを立てて物事を享受していますが、それが新たな世界の始まりとも知らずにスルーしてしまうことが多いのです。そんなスルーに待ったをかけるのが教師にできることではないでしょうか。(これを「メタ認知」と言いますね。)子どもの気づきに新たなハテナを展開することで、子どもはさらにその世界に入り込むことができると思っています。

 また、時に大人が世界の入り口を封じてしまうことも考えられます。せっかく子どもが敏感なアンテナで感じ取ったことも、大人が「はいはい」とあしらってしまえばその世界への扉は開くことはないでしょう。子どもが新たな世界へ踏み出そうとしていることに大人も敏感になる必要がありそうです。

人は世界との出会いを重ねていく

 私は成長は世界の拡張だと思っています。色んな世界に出会い、そしてその世界を深める。これによって、人はその世界の知識を獲得するだけでなく、感覚が研ぎ澄まされたり、新しい見方や考え方ができるようになります。そして、その世界を通じて新たなと出会い、人や世界との対話を通して、自分をも発見していきます。世界との出会いを重ねることにより、成長し自分を確立していくのです。そしてそれが豊かな人間へとつながっていきます。

まとめー豊かさとは

 世界を広げることは、そのものの分からなかった面が理解できるようになり、そのような世界との出会いを通して、成長し、豊かな人間になる、という持論を展開しました。

 私たちの周りには数え切れないほどの世界があります。大きさもバラバラな世界ですが、人間は色んな世界を知っていて、その世界に応じた自分がいます。でも、その世界があることに気づいていない私たちもいるし、数少ない世界で生きている私たちもいます。

 でも、色んな世界を知っていればいるほど、その人の中には多くの自分がいて、色んな生活が可能になります。“豊か“という世界は大き過ぎてもっと細かく分けることができるなんて思いながら…人間にとって豊かさとは、色んな世界と出会うことではないでしょうか。

 これからも色んな人に私の世界を見せて、色んな人の世界を覗かせてもらって、豊かな人間を追求したいなと思います。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました!


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