【鬼凪座暗躍記】-旅路の果て-『其の壱』
戊辰暦十四年。首都・天凱府、東方持国区・如意輪門町界隈は、春満開の桜日和である。
四方州・南方燦皓と境界を接する御府内外れの『笆宿』は、桜の名所として名高い。
大河の堤は花見客でにぎわい、露店もそこかしこに並んでいる。喨々たる舞楽に合わせ、芸妓の戯唄や、酔漢の莫迦踊り、陽気なチャンチキ手拍子が、弥生の空を明るく晴らす。
親子連れや老夫婦、恋仲の男女など、さまざまな人が往きかう桜並木の細道。
そんな忙しい人波を、器用にかき分けて泳ぐ男が一人。
大きな葛篭を背負った、行商人風情である。
降り注ぐ薄紅色、小さな花弁を旅装の満身に浴び、男は意気揚々と家路をたどる途中だ。
南方燦皓での買い付けをすませ、道々お得意さまへの挨拶廻り。
薬香の売れ往きは上々で、御府内へ入る前に、早くも店仕舞いである。
行商人は喜色満面で商い旗をたたみ、新妻が待つ十日ぶりの我家を、まっすぐに目指す。
彼の名は【茅刈】――姓も通り名も持たぬ、ただの【茅刈】である。
笆宿の二つ先に位置する『言宿』の、古びた長屋で暮らす風変わりな男だ。
というのも、彼には過去の記憶がまったくない。三年前、観音門町『楸宿』の谷川で転落事故に遭い、瀕死の重傷を負った。
運よく近在の寺住職に救われ、怪我は治ったが、それより以前の記憶が、綺麗さっぱり消えてしまっていたのだ。茅刈というのも、元は谷川の名だ。
激流にもまれる内、衣服や持物もはがれてしまったらしく、身元を明かす手立ては皆無。
自分に関する記憶以外は、しっかりしていたので、彼は寺男としてそこへ住みこみ、記憶が戻るまでの間、働くこととなった。現在の妻女【真魚】とも、その古寺で知り合った。
檀家の娘だったのだ。【劫族】出身の美しい娘で、彼の不遇を憐れみ、なにかと優しくいたわってくれた。当事まだ十八歳。両親の病没後、唯一人の縁者だった最愛の兄を、不幸な事故で喪ったばかりの真魚は、茅刈と同じく、天涯孤独の少女だった。
それから、紆余曲折を経て一年。夫婦となってさらに一年。
二十歳の真魚は今、彼の子を身ごもり、夫の無事な帰参を心待ちにする、献身的な妻女である。茅刈は楽しげな親子連れへ、慈愛に満ちた笑みを向け、足取りも軽くすれちがう。
唐草紋の短袍に腰帯は竹細工、なめし革の笈摺り裾細袴、手甲と行縢をつけ、頭を黒布でつつんだ茅刈の姿は、否応なく人目を惹く。
歳は多分三十前。抜けるような白皙で、瞳は珍しい七宝眼。虹彩が、まさに呼んで字の如く、七色に輝いている。しかも春風になびく束髪は、これまた非常に珍しい黄金である。
ゆえに、大恩ある寺住職や、妻女の真魚は勿論、彼の事情を知る隣近所の連中は、彼を異邦人でないかと、推察しているらしい。
だが彼は、ハナから流暢な国中語をしゃべり、この国の文化にもなれ親しんでいた。
〈きっと、あまり世間に知られておらぬ、少数部族の出なんじゃろう。血統なぞ気にするな。お前さんの人生は、始まったばかりじゃぞ〉
命の恩人で、茅刈の名づけ親でもある【胡坐和尚】は、真魚と婚約した際、そう云った。
〈そうだ、俺は【茅刈】として、新たな人生を踏み出したばかりなのだ。亡くした過去にこだわり、色々と詮索するのはもうやめよう〉
茅刈はその日、確かに生まれ変わったのだ。
「ああ、早く真魚に逢いたい」
愛しい妻女と、今秋頃には誕生するはずの吾子を想い、茅刈の足は一段と速まった。
しかし、あでやかな桜並木を抜け、人波が途切れた葦原の茶店に茅刈が差しかかった時。
縁台へ座り、堤をながめる怪しい風体の者が、通り過ぎる茅刈を一瞥……おもむろに立ち上がると、茅刈のあとに続き、歩き始めたのだ。
全身黒尽くめ、漆塗りの饅頭笠にも黒布で帳を垂らし、素顔がまったくうかがえぬ人物だ。腰帯に提げた大刀や、長身の雄々しい所作から察するに、多分まだ若い男だろう。
往きかう人々も、男の異相に懸念をいだき、遠ざかる。
男は【緇蓮族】の出身にちがいない。他族の者に素顔を見られた場合、その相手を殺すか、伴侶にせねばならぬという『鉄の掟』を持すゆえ、いささか敬遠されがちな種族だ。
茅刈は、黒尽くめ男の尾行に気づかぬまま、浮かれた気持ちで土手の上の一本道を進む。
天凱府は広い。
笆宿から言宿まで、残り二日はたっぷりかかる長い道程だ。
今宵の泊まりは『天法輪宿』……言宿手前の通過点で、燦皓方面よりの帰途、たびたび利用する定宿だ。三里はあるが、日暮れ前には着くだろう。
茅刈は葛篭を背負いなおし、鼻歌まじりに歩き続けた。黒尽くめ男も、適当な距離を保ちつつ茅刈のあとを追う。堤の道は、やがて人気もなくなり、不気味なほど静まり返った。
遠い山々の稜線を夕闇が圧しつつむ頃、見なれた道標を確認し、茅刈は土手下の畦道へと降った。開けた田畑を横目に、『天法輪宿』へと向かう。
もう少しで、定宿のあるひなびた田舎町『灯織里』が、見えるはずだった。
「おかしいな。そろそろ、一里塚に着くはずなんだが……いや、地形もちがうようだぞ?」
茅刈は立ち止まり、不可解そうに周辺の地形を見渡した。里山の風景は、どこも似通っている。だが、茅刈にとっては普段、歩きなれた道である。単純な一本道だし、迷いこみそうな横道や路地も、ほとんどない。同時に、民家の影すら見当たらないのが奇妙なのだ。
「浮き足立って、歩いてたからな。やはり、どこかでまちがえたんだ。困ったぞ。もう日暮れ間近なのに……とにかく、堤の道まで戻ろう」
茅刈は仕方なく畦道を引き返し、堤の石段まで戻った。
先の道標を見つけ、苔生す石段を登り始める。
ところが、堤の上に黒い影。例の黒尽くめ男だ。
茅刈を待ちかまえていたらしい。茅刈は、ようやく追跡者の存在に気づき、歩を止めた。
【緇蓮族】とおぼしき男の出現で、茅刈は一瞬、面食らったが、なにもやましい点はない。
恐る恐る男に近づき、その横をすり抜けようとした。そうせねば、元来た道に戻れない。
石段を登る茅刈――無言で佇む黒尽くめ男。
素顔が、まったくうかがえぬ緇衣の奥に、男はどんな思惑を隠しているのか……茅刈の心はザワついた。辺りは、やけにうら寂しい。
夕闇も密度を増したようだ。石段を一歩登るごと、茅刈の緊張は否応なく高まった。
と、突然――黒尽くめ男は、大刀の柄に手をかけた。鯉口を切る音が、耳障りに響く。
瞠目する茅刈に、戦慄が走った。
「あんた、一体……ぎゃあっ!」
宵闇を斬り裂き、男の腰間から偃月刀が一閃。鋭い刃音が袂をかすめる。
紙一重でかわしたものの、茅刈は驚愕のあまり、石段から転げ落ちてしまった。
黒尽くめ男は、チッと舌打ちし、さらに理不尽な攻撃を仕掛けてくる。
緇衣をひるがえし、偃月刀を振りかざす男の殺意におびえ、茅刈は慌てて跳ね起きた。
全身を強打したが、さいわい骨は折れていない。茅刈は絶叫し、脱兎の如く走り出した。
「やっ、やめろぉぉ! 俺に、なんの恨みがあるんだぁぁ! 誰か、助けてくれぇぇ!」
懸命に畦道を遁走する茅刈。謎の黒尽くめ男も、執拗な追撃をあきらめない。
迫り来る殺手の影に追い立てられ、茅刈はいつしか深奥な竹林へ……最早、助けが来るはずもない。
「クソッ! ワケも判らず、殺されてたまるかぁ!」
茅刈はついに覚悟を決め、対決姿勢を示した。
商売道具の葛篭を投げ捨て、護身用の九寸五分をにぎるや、黒尽くめの殺手を迎え撃つ。
だが、茅刈が振り返った時、男の姿はすでになかった。
烟のように、かき消えてしまったのだ。
深々と広がる闇。
轟々と荒ぶ竹林。
颯々と猛る夜風。
草棘はびこる山道は、寂寞と静まり、茅刈の孤影だけを、まるで亡霊の如くうごめかす。
〈まさか……今の男……俺が失くした過去と、なにか深い因縁が!? 俺は奴の、【緇蓮族】の素顔を……過去に、見てしまったのか!?〉
茅刈は肩で息つきながら、用心深く周囲の茂みを観察した。
懐刀の切っ先を、かすかに震わせる。
黒尽くめ男が、近くに隠れている気がして、安易に緊張を解けなかった。無論、今来た道を引き返す度胸はない。黄金の髪が汗で額に張りつき、顔面蒼白、鼓動が異常に速い。
怪我こそなかったが、袂を分かつ太刀の跡で、茅刈の心は凍りついた。
彼が【茅刈】になる以前、どこでどんな生活をしていたのか、いまだ思い出せない。
そのことが、茅刈にあらためて途轍もない不安を覚えさせた。
過去が見えぬ男にとって、足元は薄氷よりもろく、心許ないのだ。
「戻るのは、危険だ……かなり、遠回りにはなるが、山越えして、観音門町へ出よう!」
そこには、茅刈を救った胡坐和尚の寺もある。
老僧はすでに半月ほど前、病気で身罷られたが、当事の世話役が今も住んでいる。
茅刈は注意をおこたらず、九寸五分を手にしたまま、葛篭を背負い、汗をぬぐい、身形を整えた。大きな深呼吸で、鼓動の乱れも鎮める。
「こんなところで、死にたくない! 真魚の元へ帰るんだ! 絶対に……負けるものか!」
山道は最早、人足を阻む獣道だ。
それでも茅刈は、草木をかき分け、岩肌を踏み、難儀な山越えを敢行した。黒尽くめ男と、まったく見えない己の過去に対する恐怖心が、茅刈の背を強烈に後押ししたからだ。
もう引き返すことができぬ、黄泉路とも知らず、茅刈は深山の闇間に溶けこんで往った。
ー続ー
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?