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迫真の留学日記69「黒猫 Across Me」

 日付:2024年1月17日(水)
 位置:アメリカ カリフォルニア州(時差-17時間)
 身分:留学生
 天気:晴れ


 登場人物
・緑茶ドラゴン:書いている主、21歳日本人男性


 今住んでいる家は、猫を二匹飼っていて、一匹が黒と白のまだらな色の猫で、そしてもう一匹は年老いて弱々しい黒猫である。

 お手洗いを済ませ、ドアを開けると、目の前をちょうどその年老いた黒猫がゆっくりと右から左へと横切っていった。私はそれをまたぐこともなく、道を譲り渡した。

 よく黒猫が横切ると、不幸なことが起きるというが、しっかりと道を譲れる人間が不幸になるのはおかしな話で、これは神は私たちを救ってくれるはずだ、というような無責任な神頼みの感情ではない。

 というのも、強きものが弱きに優しくするというのは、よりよい社会を作っていくうえで欠かせないもので、累進課税なんて最たる例だろう。他にも車と歩行者との間の事故は、ほとんどの場合は車側の責任になることから見てもそうである。

 累進課税制度を褒めると、稼いだお金の半分が税金でもっていかれる人や、年金制度に対して不安を抱えている若年層からバッシングを食らってしまいそうだが、叩くなら私ではなく、年老いた政治家を叩いてくれ。

 これは疑問なのだが、横切るということは、自分から見た黒猫の相対速度が、自分の体の向きと垂直な方向の成分を持っていて、自分の体の中心を横断する行為だとすると、蟹歩きで世界を一周すれば世界中の黒猫が私の前を横切ったことになるのであろうか。となると、少しでも蟹歩きをするということは不幸を呼ぶ可能性を含んでくるような気がする。というかそれじゃあ、蟹がかわいそうである。

 さすがにこの歳になると黒猫の話が迷信であることは分かっていて、なんでそんな迷信が生まれたのかということが気になって来る。更には小説を書きたいと思うようになってからは、そういう迷信に何らかのストーリを自分で作りたいと思ってしまう。

 大真面目に考えると、黒猫はその色の特性上、光を吸収しやすいので、昼間より夜中の方が移動が多くなると思う。そうなると黒猫が横切るのは必然的に夜が多くなるだろう。

 夜の暗がりの中では黒猫は気が付きにくく、近づいて初めて認識するため、“猫居たんだ”と普段よりも印象に残りやすい。

 この記憶を保持したまま、何か不幸なことが起きると、人間は不幸なことが起きたら何かにつけて原因を解明して、その不幸を受け入れられるようにする。「やっぱり神様はみているんだ」という発言や「厄年」なんかは最たる例であろう。

 こういう思考により、黒猫が横切ったことと不幸を結び付けるのだろう。私としては、生きていれば幸も不幸もあるんだから、そんな変な理由付けなんかはよして、自分がどうにかできる範囲で不幸を取り除いたほうが良いと思う。

 ところで、今日の夜ご飯がナゲット5個と、鶏肉と豆のピラフ半人前というひどい料理だった不幸に関しては黒猫が横切ったからであろうか。いや違う、ホストマザーが手を抜いたからである、

 最近は思い通りにならないことが増えてきてフラストレーションを久しぶりに獲得した。

 そんな私の、胸にたまった鬱憤を解消するためにすることは、歌うことである。帰り道、田舎すぎて街灯がなくスマホのライトで足元を照らしながら歌う。

 傍から見たら奇声を上げている変人だが、そんな行為をしている人間は傍から見るなんてことはしてない。だからいいのだ。周りからの目線なんか気にせず楽しいと思うことを行う。これは非常に私が求めている生き方に近い。周りからの目線なんて脱ぎ捨てて、ありのままの自分でひたむきに、リスペクトと感謝を添えて生きていきたい。

 そういうえば、あの黒猫の名前は何だろう。


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