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一輪の花

一輪の野の花
栄華をきわめたソロモン王でさえ、この花の一つほどにも着 飾ってはいなかった」と語られています。

この花とは、野に咲く花のことです。

野に咲いている花 ですから、誰かに見てもらうために咲くのでもなく、意識があって見られることや自身の美しさを感動させるために咲いているのでもない。
 与え られたままの環境の中で、与えられたままに育ち、そして美しく咲き誇るのです。
例えてユリの花は半分欠けて咲くのでもなく完全な姿で咲き 誇っています。それが、自然の有りの儘の姿であり、その畏敬さが祈りに通じるのです。

この記事は戦国の時代キリスト教の布教期、イエズス会の宣教師が齎したキリスト教が茶道を代表とする日本の文化と如何に融合して布教されていったのかがテーマとなっている。

「茶禅一味」と言う言葉がありますが、茶の道を志す者にとって、茶の湯は当代流行した禅の修行に他ならない。

外界の不浄さを茶席には持ち込まぬよう路地には水をまき清浄さを保つ。客は蹲で禊いだ後待合でしばし休みながら亭主の招き入れを待つ。その間、呼吸を整えながら結界ともいうべき躙り口から聖域である茶室に通される。

茶席は単に茶を飲みあう社交の場ではない。宗教的境涯を高め合う道場であり祈りの場でもあるのです。修行するものが座る道場に、あでやかさは不要なのです。一輪の花の清楚さがそれを象徴するのです。

日本人の文化や精神性、宗教性を茶道から学び取った宣教師たちはキリスト教布教の場、聖壇に一輪の花を飾ります。彼らにとって主キリストの「この野の花を見つめよ。栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどに も着飾ってはいなかった」と語る故事を布教の指針としたのだろう。

日本人の茶人信仰者はキリスト教の一輪の野の花、その宗教的純粋さを祈りの本質として彼らにとっての聖域、床の間に一輪の花を設えたのです。

茶道の歴史的経緯とキリスト教布教事情
戦国の時代、当時の堺は貿易で栄える国際都市であり、京の都に匹敵する文化の発信地であった。堺は戦国期にあって大名に支配されず、商人が自治を行ない、周囲を壕で囲って浪人に警備させるという、いわば小さな独立国だった。多くの商人は優れた商才と文化性を併せ持ち、この地で文化芸能を育ぐくんだ。

文化の先進性といえば、この堺に於いては、切支丹信仰が萌芽を見せていたことだ。
1550(天文19)年の暮、聖ザビエルが堺の町にやって来た。彼が九州から機内にやってきたとき道中で堺の富商であり有数の茶人でもあった日比屋了珪(慶)と知り合う縁を得て堺に逗留した。

1561(永禄4)年、日比屋了珪は当時豊後にいた宣教師トルレスに進物を贈りデウスの教えを説く者を派遣してもらいたいと強く要請し、同年8月、宣教師ヴィレラが堺の地に来て、1年間日比屋家に滞在し布教している。
 
1563(永禄6)年、畿内で日本人初の盲目の宣教師ロレンソの説教を聞いて高山飛騨守友照(ダリオ)が入信し、その息子の高山右近(ジュスト)が12歳で受洗している。

 1564(永禄7)年、12月、アルメイダとフロイスが豊後からやって来たが、了珪は屋敷内の瓦葺三階建の建物を聖堂にあてて、自らも洗礼を受けて洗礼名をディオゴと称し、日比屋家の人々もそのほとんどが入信した。

こうして了珪は堺における切支丹の先駆であったと同時に、多数の茶人を切支丹に導く上でもおおいに尽力した。

千利休が茶湯の世界に登場し、活躍を始めたのもこの頃のことである。了珪の屋敷から200mの所に千利休の屋敷があり、50mの所に今井宗久の屋敷があった。

 16歳の時、利休は幼少のころから茶湯を好み茶の道に入る。17歳で北向道陳にについて東山流の茶を学ぶ。

 18歳の時、道陳の紹介で当時の茶の湯の第一人者・武野紹鴎(じょうおう)の門を叩く。紹鴎の心の師は、紹鴎が生まれた年に亡くなった「侘(わ)び茶」の祖・村田珠光(じゅこう、1423-1502)。

珠光は一休禅師の弟子で、茶会の儀式的な形よりも茶と向き合う者の精神を重視した。

大部屋では心が落ちつかないという理由で、座敷を屏風で四畳半に囲ったことが後の茶室へと発展していく。紹鴎は珠光が説く「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禅思想を採り込み、高価な名物茶碗を盲目的に有り難がるのではなく、日常生活で使っている雑器(塩壷など)を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努めた。

そして、精神的充足を追究し、“侘び”(枯淡)を求めた。この頃、堺の南宗寺に参禅し、その本山である京都郊外紫野の大徳寺とも親しく交わった。大徳寺では大林・笑嶺・古溪の三和尚に参禅し、和敬清寂の侘び茶を会得している。

 23歳の時、最初の茶会を開いた利休は師の教えをさらに進め、“侘び”の対象を茶道具だけでなく、茶室の構造やお点前の作法など茶会全体の様式にまで拡大した。当時は茶器の大半が中国・朝鮮からの輸入品であったが、利休は新たに樂茶碗など茶道具を創作し、掛物には禅の「枯淡閑寂」の精神を反映させた水墨画を選んだ。

“これ以上何も削れない”という極限まで無駄を削って緊張感を生み出し、村田珠光から100年を経て侘び茶を大成させた。(一部Webから転載と参考)

 43歳の時、利休は松永久秀主催の茶会に茶匠として招かれている。

 1568(永禄11)年、46歳の時、信長が活力に湧く自由都市・堺に目をつける。

圧倒的な武力を背景に堺を直轄地にした。これにより軍資金を差し出させ鉄砲の供給地とした。

特徴的なことは、信長が武力だけでなく文化の面でも覇権を目指したことである。茶道に力を入れ、いやしくも武将として一国一城の主ともあるほどの者ならば、この数奇の道に入らぬ者はないほど隆盛させた。

堺の納屋衆や博多衆など町家出身の茶人が武将の間に伍して、最も活躍したのも永禄から天正にかけての時代、つまり覇権が信長の手に帰して、後に転じて秀吉が信長に代って天下に号令を下した約30年ほどの期間であり、それはまた切支丹の歴史にとっても最も華々しい弘法の時代でもあった。

1569(永禄12)年、宣教師ルイス・フロイスが織田信長と会見し、京都居住布教を許可される。信長は、安土城を築くにあたってルイス・フロイスに築城上の意見を求めさせ、その結果本丸には大天主、小天主が築かれ、その上天主の内部には金・銀・朱泥が施されて、キリスト像やマリア像が祀られ、屋上には金色燦然たる十字架がかかげられたと云う。

この天主という言葉自体も、太田錦城(1765-1825)は「梧窓漫筆拾遺」の中で次のように記している。

 「西洋人は、家宅を五重七重に作りて、其第一の高層の処に、天主を祭る。信長公天主の邪教を仮りて、仏法を破却する志あり、その事は極めて謬れり、・・・、安土に大櫓を立てられて、天主と称す。是天下天主の始めなり、秀吉公の姫路の天主、大阪城の天主、伏見城の天主など是に次げり、後には大櫓を天主と称することと覚えて其所以を知らず、実はその第一の上層に、天主を奉祀する故に、名付けたるにて、西洋人の真似をしたるなり」。

 これによれば天守の名は天主教から出たものと云うことになる。新井白石も西洋紀聞(下巻)の中で次のように記している。「デウスというもの、漢に翻して天主とす。……天主教法の字は最勝王経に出づ」。諸橋漢和によると「【天守閣】城の本丸の中に、特に高く設けた物見櫓の称。

三層・五層・七層などで、八棟造りなどに建てる。天主閣の名は、松永久秀が多聞城を築いた地に、織田信長が安土城を築いて、天主を祀ったことに起るという。一説に、仏教の帝釈を中央に、四隅に四天王を祀って守護神としたことに起るという。又、上杉謙信が、天主の称を憎んで天守と改めたともいう」。

 教会あるいはキリスト教信仰大名の特注茶道具、洗礼盤、聖水瓶、燭台、向付、皿などが作られ、十字架文が明瞭に描かれている。古田織部の指導で作られた織部焼には十宇のクルス文、篦彫りの十字文が茶碗・鉢に施されている。織部灯籠は、「十字灯籠」または 「切支丹灯籠」とも呼ばれている。

キリスト教伝播の初期においては、教会内に茶室を設けて来訪者に茶の湯を接待するなど信者の司教と布教のため茶道に開心を示す文書もあり、当時の宣教師の残した文書の中にも「茶の湯は日本ではきわめて一般に行なわれ、不可欠のものであって、我等の修院においても欠かすことができないものである」(アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノ「日本巡察記」)として、すべての教会内に茶室を設けて来訪者に茶の湯を接待することを指示している。

往時のキリスト教と茶の湯は、想像する以上に濃密な関係を持っていたといえる。

このような中で、利休の妻や娘(お吟様)も信者になっている。

 1576(天正4)年、安土城が完成する。1579(天正7)年、信長は安土に教会建立を許可し、翌年にはセミナリオ(神学校)も誘致し、すでにキリシタンとなっていた高山右近が1500人の人夫を寄進し、安土教会の大成寺(ダイウス寺)と、木造三階建の神学校(セミナリヨ)とを建てた。

このような中で、やがて全国百余侯中の三割にもあたる30侯が切支丹大名となり、いわば一つのブームとなっていった。この頃の風潮を示すよい例は、切支丹武士が戦場で十字を切り、聖母マリヤの名を唱えて出陣したところが大いに戦功を得て、しかも死傷がなかったなどという風聞がまことしやかに語られ、切支丹でない武士までがマリヤ像や十字架をこぞって求めることが流行したと云う。

狭き門
イエスは「狭き門より入れ」と教えている。キリスト教で、救いに至る道が困難であることをたとえた語でマタイによる福音書7章およびルカによる福音書13章のイエスの言葉である。

日本の茶室の躙り口はまさしくバイブルのマタイ伝にある狭き門の教えと同じ意味を持つ。区別差別なく武門といえども帯刀を許さず、丸腰で茶室に出入りするための門である。このように共通的解釈ができるほど、思想、哲学的にも茶の道の確立にキリスト教は深い関係を結ぶ。

秀吉の時代の後期、天正15(1587)年6月にキリシタン宣教師追放の命がまず九州へ下された。このキリシタン追放によって、国内の信者は大きな動揺をきたした。キリシタンの教えは、人間の平等・寛容そして自我意識など多くの自覚を人々へ与えた。後キリスト教布教は徳川の大弾圧を経て隠れキリシタンとなり地下に消え、明治の信教の自由宣言まで日本社会の表層から消え去った。


 

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