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明治の知識人漱石と西田 西田幾多郎編



 哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。

 西田幾多郎(きたろう)(1870—1945)は近代日本の哲学者で、いわゆる京都学派の創始者です。
 西洋近代の哲学的手法を徹底的に学んだ上で、哲学と仏教観を融合させ、独自の諸概念を産み出しました。
その場所の哲学は、日本のみならず海外の哲学者からも研究の対象とされ輝きは今も色褪せることはない。

  彼の人生は多くの悲哀の中にあった。父親と妻との葛藤、昨日元気であったのに今日は骨壺に収まる何人かの愛し子の死等々は彼を苦しめた。畢竟哲学的究明に向かわざるを得なかったのだ。
 
 いったい西田は何を明らかにしようと苦しんだのか。西田はある作品の中で、標記の悲哀の言葉を述べています。
これは西田の哲学上の研究対象の一端を明らかにしていると同時に、私たち一人ひとりが生きる上での一つの指標が示唆されていると言えるのだ。
また、前編からの夏目漱石と近代日本哲学の草分け西田幾多郎のとの比較論は、その知識の深さや影響の大きさから言っても論ずるのはやはり難しい。

 明治維新の激動期に、商家や資産家の没落も多かったが、そのような環境下にあった両者が夫々、高等教育を受けることが出来たのは、ある意味において運が良かったのだろう。漱石は東大からイギリス留学へ向かい時代の知性としてその才能の花を咲かせた。

 一方西田は東大の専科から京大の教師となり東洋と西洋との知性の交流を目指し始めた。
両者の基本的な接点はやはり禅であろう。
 漱石は言葉を扱う学者でもあり小説家でもあったから東洋の思想の基底である禅の体験を踏まえ一つの到達点として【則天去私】に辿りついたのだ。

 思想を言葉で表現しようとして悪戦したのは西田も同じである。後にサロンを結成して多くの弟子たちと交流したりした両者のその類似性や一致点は枚挙に暇がない。
 さらに互いに共通の知己を沢山いた。しかし直接的な本人同士の交流はなかった模様である。しかし、このことは逆に、暗黙の裡に互いの作品や業績、社会に与えた影響等を意識し合った可能性が高いことを示唆しているのかもしれない。

 本ブログ前半では、彼ら二人の事績を、比較を通して簡潔に追っていますが、明治初期生まれの一握りのエリートの外面的な文化様式、時代精神を見つけ出すのは何度も言うように難しい。
それは外面的というより、内面の問題だからである。
 文章家として漱石が悩んだ言葉のもつ矛盾性を「絶対矛盾的自己同一」として統一を目指そうとした西田幾多郎。
しかし、その文体の難解さに加え「論理でない論理」として彼の思想は初心者に戸惑いを与える。
 
 西田哲学は禅から離れた、といっているが、論理を超えて禅に回帰しているのは漱石が晩年回帰した則天去私と同じなのだ。

 漱石はもともと、他者に向ける鋭く冷徹な観察眼が常人より精神のバランスを欠くほど強烈で、これが神経衰弱の原因となっていた。
 その観察眼を自己の内面に向け続けることにより、何処かでみるものとみられるもの折り合いをつけ或いは融合を果たしたのだろう。
漱石は若き日参禅したが見性を得なかった。が、西洋的な論理学を勉強した漱石にとってそのことは当然であったのだろう。
その経験を「門」に反映させているが、その後作品、行人を見れば苦しみながらも一定レベルの見性を得たということなのだろうか。

 禅の公案では「無字」を和尚から与えられて答える悟りえの初関。言葉で説明できないパラドックスの世界観。
両手で手を合わせると音がするが、では片手ではどんな音がするのかの「隻手音声」の公案は私の住む静岡県生まれの臨済中興の祖と謳われる白隠禅師の公案である。

漱石が与えられたのが「父母未成以前の本来の面目」。漱石は挫折。
 西田はこの問答に疑問を持ちながら座禅に通った。禅は物の本質を疑い抜くことが見性と言われる悟りへの道だ。
西田は禅の「無字の公案」を疑いぬいた。
それは「無」の非論理から「場所」の論理への展開だった。
そこで「述語論理」を展開する。
主語となって述語にはならないもの。それが無の場所。
自己の否定が矛盾的に一体化していく、内在的という世界だ。

 私は俳句の素人とながら、正岡子規の「柿食えば鐘が鳴るなる法隆寺」が好きだ。
正岡子規は東大の同窓として漱石と深い親交があり、漱石もまた俳句の指導を子規から受けている。
 自我が鐘の音と一体化して自己の内なる場所を開示する、西田の述語論理は、漱石の「則天去私」とも繋がる。
 西洋に学びながら東洋を自覚した漱石と西田に哲学を挫折し俳句文学に転向した子規が加わる。

 煩悶する文学と難渋さを極める哲学。私ごとき市井のいち個人が論評はするに余りにも大きな問題であるが多少の入門的知識は提供できたであろうか。
 漱石と西田は3歳違い。
両者とも幼少期の家族関係の不具合、娘の死、不合理な家長的存在は生涯の厄介事であった。

 漱石は本科生、西田は選科生として同じ哲学と心理学を共通の先生に学んだ。
ウィリアム・ジェームズの「純粋経験」や「多元的宇宙」などの哲学や「禅」、ニーチェへの共通認識が、知性の近代化として日本人に大きな影響を与えていった。


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