芭蕉と哲学3
全てに先立ちあることが存在していたとすれば物の始まる以前はどうであったのか、仮に無であれば何もないのに生まれることは有りません。無から有を生じることはないのです。
この世界は有なのか無なのかどちらとも言えない、カントには「認識(主観)が対象に従うのではなく対象(客観)が認識に従う」-知識の先見性ー「理性は自らの力を過信して誤謬に陥る」といった、従来の哲学の常識を覆す革命的な視点が盛り込まれています。このように、対立するどちらの論も成り立たない矛盾をアンチノミー(二律背反)と呼び、この検証を通じてカントは理性の限界を鮮やかに浮かび上がらせたのです。
それが、カントの理性批判で、二律背反の問題です。
では芭蕉が、当時の知識人が根拠を置く禅の哲学ではこの有無の問題をどのように考えているのだろうか。
この問題は絶対(無)と相対(有)と置き換えられます。禅では有即無として相対の否定であり絶対への転換の問題です。
ですから、この句は時間空間、生と死の断絶と繋がりという問題を提起し、理性が自ら陥ってしまう誤謬に陥ることなく、感性との整合をはかるものなのです。
古池といった過去や死を象徴するものが切れの「や」で断絶するとともに現実の生そのもの、水の音が突然的に、瞬間的に生々しい感覚を伴っって同時に現実に生起することを表わしている。ここに個々の二律背反を免れた同時性ということが表現されているのだろう。
「蛙飛び込む水の音」は生の営みであり、動きである。
蛙を出しておきながら、声を出していない。音は優雅の世界ではない。ここでは優雅でなく、わび、さびの世界である。
古池という死の世界になりかねないものに、蛙を飛びこませることによって生命を吹き込んだのである。それでこそ、わび、さびが生じたというのだろう。
(私の住む静岡県)沼津市原に江戸時代初期の臨済宗中興の祖と言われる白隠がいる。
彼の提唱した「隻手音声」は声なき声を聴く、音なき音を聞くという公案である。これも理性を封じる公案であり古池の句に一脈通じるものでありカントの理性批判につながるものがある。
物事を分けて見るのは、カント以前の西洋論理学である。人は、言葉は、世界を二分する。分析的論理的ともいえる。人は本来、理性の生き物なのだ。
宇宙は有限か無限か「分けて見る」というこの行為はあくまでも人間の営為にすぎず、宇宙自体の与り知らぬことである。
西洋論理学は言葉の結合の仕方を考えるだけで、言葉そのものを考えることがないという。
禅でははそれを考え言葉に潜む理性の誤ビョウに気づいている。
したがって、その言葉づかいは異色のものとなる(非論理的であり感性的ということ)。
それは言葉の否定(俳句では切れ)を含むが、これも論理のうちである。西洋と東洋の両論理の違いを示すために鈴木大拙は後者を「即非の論理」と呼んだ。
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