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日本人の死生観 3 実在とは今

人間に与えられた時間は常に今しかありません。過去はすでになく、未來は未だ存在していません。今の一瞬をどう生きるかが、すべてなのです。現在は、未来を指向する力と過去の相反した方向に働く二つの力の緊張した相克なのです。
現在は過去と未来の通過点でもあり、現在があるから過去があり未来があるのです。現在の喪失は自己の喪失です。
時間は、いつも現在である。ですから、現在は永遠であり、その自覚が永遠の命の自覚である。

生者から死者への変化には一定の儀礼が必要であることを2章で書いた。その儀礼はおそらく、「死に目に会う」ことから始まる。
末期患者における延命治療がそうした儀礼としての意味を持つならば、治らない患者に医療費をかける、無駄”な治療だという見方は非常に浅薄な考えではないかと識者は問う。

 また、死者の在り方というものは歴史的にも文化的にも日本と欧米では大きく異なることを前章では詳しく述べた。

要は、日本人は死んで故郷の自然に帰る、もしくは、故郷の土になるという思いが強いのだろうが半面、2章の最後に書いたが現代日本でも、ヨーロッパ世界でも、「死んだらおしまい」」と思う人は多いのでは。

これは、家族を含めた、生前自分が関わったすべての関係からの分離を物語っている。

「死んだらおしまい」という感覚はなんなのでしょう。死んだら、まったくの無になる、という感情なのだろうか。

私は無名だが我が故郷静岡県焼津に晩年深い愛情を寄せたラフカディオ・ハーン小泉八雲の一研究者である。

 ラフカディオ・ハーン、小泉八雲は1890年に来日し、英語教師のかたわら日本に関する著述を多く書いた。彼は日本における死者の在り方についてこう述べている。

 『日本人の考えでは、死んだものも、生きているものとおなじように、この世に実在しているのである。
死者は、国民の日常生活のなかへもはいってきて、いささかの悲しみ、いささかの喜びをも、生きているものたちとともにわかちあうのである。
家族の食事の際にも、死者はそこへ出てくるし、家庭のしあわせをも守るし、子孫の繁栄を助けもするし、また喜びもする』(ラフカディオ・ハーン『祖先崇拝の思想』)

 日本文化において、死んだ者は死者として現実世界に存在する。生者は死者を敬うことで生きている者の生活も質を高めることができた。
死者が死後も語り継がれ、尊敬されるということを見て育った者は、いたずらに死を恐れない。
また死者を敬うことで、生者は目標を持って日々を送ることができるし、自らを律することも可能となる。
日本文化において死者は生者と強い関係性を持ち続け、その関係性を無視して死や死者を語ることはできないだろう。

「死は生成発展」であるともいう。
死は生成発展の一つの過程であり、万物が成長する姿である。
であれば、死ぬということは、大きな天地の理法に従う姿であって、そこに喜びと安心があってよい、と松下電器、現Panasonicの創業者松下幸之助は述べたという。(松下政経塾)

死は自然の事実、ならば、死を受け入れ、より大きな生命の連鎖のなかに自らの死を置くということなのだろう。
これは、より大きな関係性・連続性の中での死を捉えた考え方である。

四季の変化、環境が人の死生観に大きな影響を与えることも2章でこれまた多くを割きましたが、木々は春には花をつけ、夏の間は葉を繁らせ、秋には紅葉し、冬には落葉し寂寥感に包まれる。
まるで死んだようになります。
しかし、春になればそれが再び甦ることは、私たちが経験上知っている通りです。

人間も同様です。私たちは生まれ、成長し、死へ向かいます。しかし円環的、循環的な生命現象を経験する中で実は私は死なないのではと思う瞬間もあるのではないか。

お恐らく、意識状態は深いところで入れ替わることがなく死の状態では、「冬」の期間を過ごし、生まれ変わってまた、新しい春、新しい生を迎えるのではないか。

このように、魂(意識)は経験と完璧を求め、肉体を得たり失ったりを無数に繰り返しながら連続していくのだと思えばよい。

オランダの哲学者スピノザは、彼が理想の人間像とする「自由人」とは「死について考えず,その知恵を生に注ぎ,自分と他人を向上させることに専念する者」であると定義します。

 スピノザ哲学は,「神のいない世界で,どうすれば人類はよい人生を送り,幸福を享受できるのか」を提案している。
つまり、命は連続した繋がりであり、その中で意識は目に見える世界と見えない世界を切れ目なく移動します。この視点に立つことにより、生と死を論理的に見る一つの方法、つまり新しい哲学が確立するのです。

自由な人が考えるのは、ほかならぬ死についてである。そして彼の賢明さは、そこから死ではなく、生について熟慮を始めることだ。

最後に西田哲学では生死をどのように解釈するであろうか。
私自身が生きているのは、まさに絶対現在のところ、ここ、自分の心の根底においていつもそこにしか生きていない。
自身の自我のハタラキと絶対者(神、仏、超越者)のハタラキは逆の関係にある。
自我を無にする、無心、無私、私心なく働く時ほど、そこに絶対(神)の働きが現れる。真の個人、真の生命は、絶対現在の瞬間的自己限定として成立するのである。

生死の否定即肯定の絶対矛盾的自己同一の世界は、どこまでも逆限定の世界、逆対応の世界でなければならない。

生と死との対立は、どこまでも逆対応的で、故に我々の宗教心も、我々の自己から起るのではなくして、神または仏の呼声であり働きなのです。
神または仏の働く場所、そこが自己成立の根源であり、真の生命があり永遠が成立する場所でもあるのです。(西田の高弟、久松真一は私は死なないと自覚を披歴した)
西田の「絶対現在」や「永遠の今」という表現は、「いのち」にとって絶対的な価値を有し、永遠に揺るぎない尊い一瞬を言うのです。
なぜなら、「現在」あるいは「今」をゆるがせにすれば、同時性としての過去も未来も永遠に無益なものに堕してしまうからです。

一生を虚しく死んでいくのはなく、「現在」を過去・未来の同時性として生き抜く以外はあり得ないのです。
死にも生にも捉われない今瞬間瞬間を懸命に生きることが死を克服する事に他ならないことを言うのだろう。

終り



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