見出し画像

井筒俊彦 語学の哲人

彼はイスラム思想、特にペルシア思想とイスラム神秘主義に関する数多くの著作を出版したが、自身は仏教徒で、晩年には研究を仏教哲学(禅、唯識、華厳などの大乗仏典)、老荘思想、朱子学、西洋中世哲学、ユダヤ思想などの分野にまで広げた。
東洋思想の「共時的構造化」を試みた『意識と本質』は、井筒の広範な思想研究の成果が盛り込まれた代表的著作とされる。
共時的構造化とは、東洋哲学の諸伝統を、時間軸からはずし組み変えることによって、それらすべてを構造的に包み込む一つの思想連関的空間を、人為的に創り出そうとするのものという。

これだけでは分かりにくいのでさらなる説明を加えれば、東洋の哲学的諸系統を、現在ここでの、平面的な場で空間的に論じるということなのだろう。また「東洋人の哲学的思惟を決めるうえで根源的なパターンがあるはすだ」として、その上で東洋哲学の根源的パターンのシステムを、一度そっくり主体化し、東洋の視座とでもいうべきものを打ち立てていこうとした。

「さらにもう一歩進んで、東洋思想の諸伝統を我々自身の意識に内面化」する必要があるという。

 そして「そこにおのずから成立する東洋哲学の磁場のなかから、新しい哲学を世界的コンテクストにおいて生み出していく努力をし始めなければならない時期に、今、我々は来ているのではないか」というのである。

 このように多くの思想潮流を、「東洋哲学」の名に値する有機的統一体にまで纏め上げ、さらにそれを、世界の現在的状況のなかで、「過去志向的でなく未来志向的に、哲学的思惟の創造的原点となり得るような形」に展開させることが、「東洋哲学の共時的構造化」ということなのである。

『古事記伝』は江戸後期,本居宣長の著した『古事記』の注釈書であり、35年間の歳月をかけ1798年完成。44巻。
『古事記』を精密に研究することにより,儒仏思想の浸透していない古代日本人固有の精神が理解できるものとした。
古事記という古典は、それを読む時代の人との同質の実存的体験がなければは存在し得なかっただろうし、でなければ宣長はそこに35年もの歳月を捧げることをしなかっただろう。
本居宣長が古事記を一個の「生き物」だと思っていたように、井筒俊彦は「意識と本質」に登場する哲人たちを「今」に臨在する者として論じ、読者をその現場に招こうとしているのである。

井筒俊彦は、古事記を通して古人の信仰に基づいた生活ぶりまでを読みこんだのだ。
その読み解きを通し
東西の哲人達の「哲学的思惟の根源に伏在する「観照的体験(対象の美を直接的に感じ取ること。美の直感)」を“読み解こう”とするのである。

 このような超越的な読み方をすることによって、古人や東西の哲人たちが「今」に臨在する者として甦るのである。

 つまり、時代を超えた「対話」が成立するには、「読む」という知的理解を超える営みが必要だったのである。

ちなみにこの「読む」という営みは、「想像力」と読み換えても差し支えはないというのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?