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偉大な学者中村元2

慈しみ

一切の生きとし生けるものは

幸福であれ 安穏であれ 安楽であれ

一切の生きとし生けるものは幸であれ

何びとも他人を欺いては ならない

たといどこにあっても

他人を軽んじてはならない

互いに他人に苦痛を与える

ことを望んではならない

この慈しみの心づかいを

しっかりと たもて
この詩のような言葉は、中村元先生の墓前にある墓碑に書かれた先生の訳によるブッダのことばである。
私はこの中村氏の記事を書く前に良寛と貞心尼をNoteに書いたが良寛は立派に和歌を読み、よく書に親しみ、正法眼蔵に通じた智の人であったが、彼の本領は慈悲に生きることだった。
学問のための勉強はやらないとは、西田幾多郎の高弟、京大宗教学の久松真一氏の口癖だったと聞くが、当に中村先生も格のごとく慈悲に生きるための学問だったのだろう。
仏教の初期教団部派仏教が在家の苦悩する人々への救済(慈悲)を忘却したので、初期の大乗仏教をになった人々が、無縁の慈悲を強調した。
これは、エリート主義、差別性のなき慈悲である。現代のカウンセラーが担当しているような心の病気、対人葛藤などの苦悩を治療することと同じなのである。

対象のない慈悲とは 「無縁の慈悲」は、対象のない慈悲だという。中村元氏によれば、大乗は「無縁の慈悲」を強調したが、そういう主張がすんなり理解されたわけではない。しかし、大乗の人々は、できると主張した。

 「空観にもとづく慈悲という思想には、仏教の内部においてもすでに反論が起こった。慈悲の対象がなければ、慈悲の実践は無意味となるではないか、というのである。この点で説一切有部は性空論者と対決するのである。

 こういう論難のあとが、ナーガールジュナの論書のうちに反映している。これについてかれは次のように説明している。

『もし諸法みな空ならば、しからば衆生も無し。誰かすくわるべき者あらんや。このときは[慈]悲の心すなわち弱し。或いは、時に衆生の愍れむべき[ものなること]を以てせば、諸法の空を観ること弱し。もし方便力を得ば、この二法(二つのこと)において等しうしてかたよること無からん。大悲心は諸法の実相を妨げず、諸法の実相を得れども大悲を妨げず。かくのごとき方便を生ずるこの時、すなわち菩薩の法位に入って、阿び跋致地(不退転の境地)にとどまることを得。』『大智度論』

 無生法忍(禅の悟り体験と思われる)を得ると不退転の境地に入るといわれる。不退転となり諸法の実相を得ると、衆生の苦を知り、あわれむべきことを知り、衆生の苦を空とみないで慈悲に働く方便力を得るというのである。諸法の実相を得ることが、大悲を妨げないという。

 悟りを得ると、空を知るが、衆生の苦を知る方便も得る。衆生の苦をあわれむ方便を得る。結局、無生法忍で、苦のない根源を知るからである。

 「われわれは、この問題についてさらに考えてみなければならない。右に説かれていることからつきつめて考えてみるならば、実は空の立場を自覚してこそ、その慈悲行が純粋のものとなるのである。大乗仏教の哲学者は、空観にもとづく無縁の慈悲というものをもち出した。すでに『観無量寿経』において『仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈を以て諸の衆生を摂したまう』という。ところでこの「無縁の慈悲」というものは、大乗仏教の思想体系においていかなる意義を有するものなのであろうか?」

 空は、無我を悟る。救済の援助をする自らは、空であることをはっきり自覚して、我空で動く。しかし、方便力で、衆生の苦を観る、観るがゆえに、そのまま放置しない。自分は無我で、衆生の苦を方便で観て、慈悲を行う。行って行っているという意識を持たない。

 さらに、衆生が苦から解放されるのは、こちらの功績ではなくて、苦悩する衆生の側の潜在力である(実践的にもそうである。衆生側が我を捨てない限り、救われない)ことを知っているのが、悟道者であるから、「私が救う」という意識はない。あれば、無我を悟っていない。

無縁の慈悲だから、エリート主義があれば、それは空の悟りを得ていない者である。空の悟りを得た者には、「高ぶらない」慈悲、エリート主義、差別性がない慈悲がある。

 中村元氏は「ところでこの「無縁の慈悲」というものは、大乗仏教の思想体系においていかなる意義を有するものなのであるかをこう語る。

 「慈悲は空観にもとづいて実現されるのであるから、慈悲の実践をなす人は「自分は慈悲を行なっているのだ」という高ぶった、とらわれた心があるならば、それはまだ真の慈悲ではない。慈悲の実践は、慈悲の実践という意識を越えたところにあらわれる。

『われなお慈悲心を起こさず。何んぞ況んや毒害心をや。』

この道理を、至道無難禅師はよく説明している。

『物にじゅくする時あるべし。たとえばちひさきとき、いろはをならひ、世わたる時、文書くにもろこしの事も書きのこす事なし。いろはのじゅくするなり。仏道も修行する人、身のあくを去るうちはくるしけれども、去りつくしてほとけになりて後は、何事もくるしみなし。又慈悲も同じ事也。じひするうちは、じひに心あり。じひじゅくするとき、じひをしらず。じひしてじひをしらぬとき、仏といふなり。』

『じひはみなぼさつのなせるわざなれば身のわざはいのいかであるべき。』

『主に忠おやには孝をなすものとしらでするこそまことなりけれ』

 すなわち現象的な自己を無に帰したとき、慈悲が絶対者からあらわれるのである。そうして慈悲行は個我のはからいではなくて、個我を超えた絶対者から現われ出るものなのである。

 このような態度を盤珪は、不生禅の立場から基礎づけている。すなわち万象は夢のごとく空中の華のように空無なるものであるということを説いたあとで、次のようにいう。

『是れを慥(たしか)に知ったる時は、日用一切の上で空華をしり、夢としって取りもせず捨てもせず、吾にたがふたるは、夢の差ひとしり、順したることは、夢の順なりと知て、差ふことを憎まず、順したるを愛せず、憎むまい愛すまいと云ふ用心もせず、金銀財宝も、その如く捨てもせず欲もなく、ありの儘でさばく時には、鳥の虚空をとぶ時、空の中に鳥の足跡なきが如く、魚の水におよぎてさはりなきが如し。親をば親の如く、子をば子の如く、兄弟妻子他人知人、只それぞれの儘でたがひもせず、何の子細もなきなり。去るに依て、道元和尚も、「水鳥の行くも帰るも跡たえてされどもみちはたがはざりけり」と詠ぜられたる如くなり。

 空の倫理とは、鳥が大空を飛ぶように、他のものにもとらえられず、自由なこころもちで行動することである。各自が私心や欲望を去って、普遍的なあるべき理法にしたがい、自己の自由を確保することによってこそ、道徳が守られる。

 このような気持ちを涵養し、現出するためには、心が平静でなければならない。人に対する同情(哀愍)というものは、静慮パーラミターに摂せられるものである。」

 人間の行為は熟すれば何事もなしていることを知らぬものである。タバコの禁煙も最初は苦しいが、やがて熟して禁煙し続けて苦しくも無い。やがて、禁煙しているという意識もないが、禁煙は続いている。慈悲も熟せば、慈悲して慈悲している意識がなくなるというのである。しかも、坐禅と動中の工夫を続けた者は、自分の心に、種々の思いが動くのを観ている。もちろん、エリート意識、差別意識も動くのも気がつく。そして、やがて、我空・法空を悟る。それにより、自他不二、無差別・平等の人間の本性を悟る。そこから、エリート意識、差別意識は、真実ではなく染汚の心であることをはっきりと自覚する。自他不二からの慈悲についても中村元氏が考察している。

 親はわが子の苦しみをほうってはいない。無限に救済の援助の行為をする。そこにさえ、エリート主義、差別性、傲慢はない。

 医者やカウンセラーの中にも、いかなる自利にもならないように自己洞察を続けながら、救済の援助をする人がいる。ここにも、エリート主義、差別性、傲慢はない。

 坐禅や仏教の心理学(悪見のところ)は、心の病気などを治癒できるのに、それを知らず勉学せず、そういうことをしないことを自己弁護する学説を強く主張する。自分が坐禅さえしていれば「悟り」だと主張する僧侶は、人を救わない。そういうことが何十年も続くので、誠実な学者から偏見、独断、不毛の議論と批判された。しかし、中村氏などが明らかにするように、大乗の菩薩、一部の禅者は、自分の心の執著を常に観ているという工夫を続けていた。自分の心に、エリート意識、差別意識が起こるのを観て、捨てる。そういう工夫を続ける。そして、悟るのは、我空、法空を悟る。エリート主義、差別のない自己の本性を知る。それで、煩悩がすべて現行しなくなるのではない。さらに自分の心の洞察、煩悩の捨棄が続けられる。終ったと思い、他者を救済しないのは、「慢」や「貪・瞋・癡」がまだある。救済行のために、苦悩する人と会話すると、また、貪・瞋・癡・悪見・慢が起きるであろう。苦悩する人にあいながらの修行が生涯続く。
(私は仏教学者ではないので仏教の学問的知見は各所に散見されるWebの記事を参考とした)


 


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