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2019 ただ足を踏んでいただけ

安倍内閣が2015年、安全保障関連法案を強行採決し、集団的自衛権の行使が容認されることとなった。そこに国民は反発し、市民運動が活発化した。その時の主題は、「防衛」だった。

貧困率が増大し、好景気の実感のないまま、消費税10%への増税を控えている今、政治的なテーマとして注目を浴びているのは、「経済」だ。

つい最近まで政府は「戦後最長の好景気」を発表していたが、統計の不正が発覚し国会でも追求されている中、ついに今日、内閣府は後退局面に入った可能性があるとし、基調判断を下方修正するに至った。

今となっては懐かしい、戦後の高度成長期の好景気。が、しかし、景気が良かったのは当たり前のことだったのか。

ここ数年、自民党による改憲が懸念され、憲法論議が活発化してきている。特に今、俎上に載せられているのは、9条だ。私たちが、「平和憲法」の礎としてきた条項だ。これまで当たり前にあると思っていた憲法が変えられるかもしれないというのは、少なからぬ人に大きな衝撃を持って受け止められた様に思う。そのために、憲法を学び、広めようとする人は増えた。

憲法は、第二次世界大戦の結果、制定されたものだ。その憲法が見直されようとしている。

天皇が今年交代しようとしている。先の在位30年記念式典でこの様な言葉をのこされている。「しかし、憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く」。血の通った人間が「象徴」として生きるのは、それは果てしなく遠い道であるのは当然のことだ。「象徴」とは概念であり、生き物が概念として生きることは不可能だからだ。

戦後70年にして、私たちがこれまで「当たり前」だと思っていたことの、「見直し」が、大変大きな力で迫られている様に思う。では、何の力か。

つい先日、沖縄の辺野古埋め立てについて、県民投票が行われ、沖縄県は「反対」の意思を示した。その結果に関わらず、またその工事の非合理性に関わらず、政府は埋め立てを強行している。沖縄が、この日本という国の中で、どの様に扱われてきたか、今こそよく見ろと言われているようだ。

戦後とはなんだったのだろう。

米軍基地がたくさん置かれていて、米軍による事件や環境問題があっても、自国の住民のために、非難の声をあげられないクニ。

核の問題がある。第二次世界大戦で原爆を投下されたこのクニだが、被曝者のために、アメリカに謝罪を要求したことはあったのだろうか(むしろ日本がそれを拒否をしたという話を、本で読んだ)。

原発。このクニは、クニをあげて、原子力政策をすすめてきた。その後に残されたものは、事故を起こして手の付けられなくなった原子炉4基と、故郷を決定的に汚され、生活を破壊された人々だ。その人々に対してクニはどの様な仕打ちをしているだろうか。そして何故、そこまでして、原発政策を固持しようとしているのだろうか。

これまで「当たり前」と思っている毎日を送りながら、私たちは誰かの足を踏み続けていたのではないだろうか。本当は「当たり前」など、どこにも無かったのではないだろうか。

戦争では、大きな被害を受けると同時に、大きな加害も与えた。

2019年は、これまで私たちが知らなかった/知らないふりをしていた事柄が、明らかになってくる年だと感じる。

防衛と、経済の問題が、一体であると腑に落ちたら、もう一歩前に進めるのではないだろうか。これらは、ふたつの別の問題ではない。これまでの「当たり前」を見直さないことには、現政権に立ち向かう力も手に入らないだろう。防衛と経済、これらは同一の体を持っていた。鍵は、アメリカだ。

アメリカ。天皇。

最近、「平和」という言葉が空しく聞こえる。平和を続けようという考えで果たしていいのか。平和だったという認識で果たしていいのか。

誰かの足を踏んでいたことに気付いて、その足をどけたい。

2019年、そろそろ私たちは、夢物語から目覚めるべきだと思う。

見直しを迫っている大きな力とは、「歴史」だ。厳しい目をもって、自分自身の足元を見直すことが、今、これまでになく、求められている。後回しにしていた宿題の締切日が目の前だ。

「核の傘下」という言葉がある。これも現実というだけではなく、象徴的だと思う。

傘の中で縮こまり、誰かの足を踏み続けているよりは。

世界は広く豊かだ。

外へ出よう。

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