父親になるということ
僕には生まれた時から父親がいない。
母親は僕のことを女手ひとつで育て上げてくれた。
飲食店を経営しながら何不自由無い暮らしをさせてもらい、幼稚園、小学校、中学校、高校、そして大学は学費の高い美術大学と全て私立に入れてくれた。
夜中まで仕事をして、少しの睡眠時間でお弁当と朝食の支度。
僕は給食を食べたことがない。
大きくなるにつれ親や実家暮らしから逃れたいという気持ちが徐々に強くなり、まるで親の背中を見るかのように同じ27歳で闇雲にそれまでいた会社を飛び出した。
父親がいなくて寂しかった記憶はない。
母親の周りには友人やお客さん、従業員など身近にたくさんの大人の男性がおり、幼少期からよく面倒を見てもらっていた。
小学校の恩師には人一倍厳しく躾られ、男の人の厳しさも学んだ。
父親のことは何も教えてくれない母親。
小っ恥ずかしくて聞けない息子。
漠然と興味はあったが、それが高まったのはちょうど社会と向き合わなくてはならなくなった頃だった。
母親が店をはじめた歳、ふと周りを見渡すと友人は会社に勤め、ボーナスをもらい、親孝行をし、結婚して子どもができた。
焦燥感にかられるも自分には何もない。
生意気に社会に飛び出したものの、20代後半になる僕にはそんな世界で戦える術は何も持ち合わせていなかった。
その時、ふと、自分とは誰なんだと考えるようになる。
就職活動も自己分析もキャリア設計も何もしたことのない自分にとっては、その時、自分のルーツがなんなのか強く知りたい衝動に駆られた。
そこから数年、がむしゃらに生き抜いた結果、現在どうにか飯ぐらは食えるようになった。
楽観的にいずれ結婚、子どもなどという頭はあったが具体性には欠けていた。しかし、また親の人生をなぞるように36歳にして子どもを授かった。
父親になるのだ。
2024年2月17日。
まだ日が明けぬ早朝から陣痛を訴えた妻は午前10時頃に分娩室に入る。
これまでの準備の成果か子宮口は順調に開いたがなかなか赤ちゃんが降りてこない。本来は背中を向いて産道を通らなければいけないのだが、お腹の方を向いて直らないのだ。
必死にいきむも激しい痛みだけが襲い、一向に埒が明かない。
19時、医者の判断で国立病院に搬送。
陣痛誘発を行い、それでもダメなら緊急帝王切開の説明を受けた。
僕たちにとってはまさかの展開だった。
夫婦ともども健康体で体格も良く、ヨガインストラスターの妻は妊娠後食事や運動など出産へ向け万全の準備を重ねてきた。
しかし、目の前にいたのは長時間の激痛で気を失いかけている妻の姿だった。僕はただそばで見守ることしかできない。
幸いなことに陣痛誘発と適切な処置により早々に出産体制に。
悲鳴の中複数の医師、助産師に囲まれラストスパートに入る。
僕は自ら出産立ち会いを希望していた。
自分が父親になる瞬間をこの目で見ていたかった。
我が子がこの世に生を授かる時を共にしたかった。
あまりにも苦しそうな妻。
血だらけになっている姿は目を覆いたくなるほどの凄まじさだった。
助産師には一刻も早いお産のために、声を出さずに息を吐くように言われているが、激痛に泣き叫ぶ。赤ちゃんの頭はもう見えている。
しかし、その時ふと頭をよぎる。
痛い思いをしたくても、泣き叫びたくても、叶わない人もいる。
早くどうにかしてあげたいと思いながらも、今この状況に感謝をし、全身に力が入る。
父親になるのだ。
あの時、僕の父親はどのようなことを考えていたのだろう。
母親や僕の無事を心から願っていたのだろうか。
日付が変わる直前、我が子は生まれた。
母子共に、やっとの思いで生まれてきた。
しかしそこに泣き声はない。
小児科の担当医が処置を施すが体はぐったりしたままだ。
子宮口が開き出産の体制になってからあまりにも時間がかかりすぎたため、赤ちゃんへ酸素が行き届かず、うまく呼吸ができていない。
妻は妊娠するまで子どもの泣き声が苦手だったそうだ。
お義父さんには幼少期泣くとよく叱られたとも話していた。
泣いてくれ。心からそう願っていた。
診断は「重症新生児仮死」。
幸いにもそこまでひどい状態でないものの、数週間はNICU(新生児特定集中治療室)に入り自力で呼吸ができるようにするとともに、脳などに異常がないか検査をしていく。
一人っ子でいとこもいない僕の家系、また、妻は女系家族で三姉妹、両家初孫、男の子であることにちなんで「弥(ますます)」「栄(さかえる)」と書いて「弥栄(やえい)」と名付けた。
結婚直前、ひょんなことから父親の名前を聞かされた。
10代の頃、知らずに何度か会ったことがある人だった。
同じ父親として、現実に目を背けてはならない。
父親になるのだ。