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大学3年の冬、生き方がわからなくなった

友達と飲んだ帰り道、あんなに楽しかったのに、どうしようもなく虚しくなった。

久々に呼ばれた友達との場。思えば、盛り上げようと必死だったように思う。身に起きた全てをネタにして喋りすぎてしまった。些細なこと、限られた人にだけ打ち明けてじっくり悩んだこと、全部、自分の中身を外に出してしまった。自分が空っぽになった感じがした。



するとこう言われた。

きみは今まで全部、誰かのために、で動いてきたでしょう。
自分の努力を、自分という大皿に注ぎ込むのではなく、相手という小皿にたくさん注ぎ込んできたんだね。



なんだか、すごく腑に落ちた。
これまでのわたしの人生の総括を言うとしたらこれだと思った。

相手のために行動して得られた達成感はもちろんある。けれども、自分の努力が外に注がれてきた、という指摘があんまりにも身に覚えがありすぎて、それを20年もしてきたんだと思ったら体の力が抜けてしまった。もう疲れたよ、が口をついて出てきて、久々に嗚咽して泣いた。我ながら子供みたいだなと思った。

負けず嫌いで頑張り屋、それなりにきつい時期乗り越えた経験もある。なのに、この人生の虚しさはなんだ?と思っていた。
頑張ってるのに自分が空っぽな感じは、自分の努力が対外に注がれている虚しさなのかな。
もう少し、自分のために努力を注ぐことができたと思えたら、充実したと思える人生になるのかな。





なぜ努力を対外向けにしてしまうのだろう?
これは幼少期からの環境に起因していると思う。

有る事無い事の噂がすぐに広まる田舎。
「〇〇家の長女。成績優秀。」
そのイメージについていけるように努力した。家の印象に関わるだろうと行動に気を遣い、親に褒められるのが良いことだと信じて疑わなかった。

大学に入り、初めて家族に対する違和感が大きくなった。父親の絶対王政の下、目先のことや損得勘定を優先し、自分の思い通りにいかないと、私や私の周りの人まで否定する。
何も信じられなくなった。これまで信じてきた分の反動は大きい。私のことを応援していると思っていたが、それは本当なのだろうか。家のアピールのための道具として少なからず利用されていたんだろうな。私の人生をいつまで操縦するつもりなのだろう。




ここまで考えて、ああ、わたしは他の人に望まれたから、そのためだけに生まれてきてしまっただけで、人生に意味なんてない。
と思った。

もともと、生きる意味とかは考える必要無いんじゃない?とぼんやり思っていたが、もっと絶望的な確信だった。考える必要が無いのではなくて、そもそも無いんだな、と思った。親になりたかった他人らの目的の、結果でしかない。

そう思ったら、なんもやりたくなくなった。授業とか課題とか卒論のテーマとかどうでもよくなってしまった。でも期日は迫る。それに向き合える状態じゃないのに。
なんで生きてるのかわからない、を前にした時、すべてが意味をなさなくなった。ずっと横たわるしかできなかった。
たぶん、人生の意味とかいうのは、人生に意味がないって気づいても絶望しないために、まぁ考えてもいいんじゃない?ってものなのかなと思った。

ご飯食べてるときと音楽聴いてるときは忘れられるけれど、ふと、意味ないのになにしてんの、と冷めた自分が指摘してきそうで怖い。

文学部である意味をもう一度考える機会になりそう。

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