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🖊️佐藤春夫 vs 檀一雄 ぼくのせんせい 昭和のチー牛顔

壇一雄 わたくしが佐藤先生のところへ弟子入りしたのが数え年の二十二。先生が四十二のときですが、四十二といったら、いまのわたくしよりずっと若い。それが、鬱然たる老大家に見えたですね。昭和八、九年ですね。最初にお目にかかって驚いたんですが、先生という人間にぶつかって、わたくしはわたくし流に訛って先生を受け止めたに相違いないけれど、なにかどめどない力の源泉みたいなものがあると感じたですね。そのころ、太宰(治)ともいっしょによく先生のところへ行ったものです。保田与重朗とか芳賀壇、亀井勝一郎、中谷さん、淀野隆三、外村繁とか、みなさんと出かけていくと、先生も若くていらっしゃったけど、午後二時、三時、四時まで起きていらっしゃる。いっしょに騒いでね。話が脱線したり、飛んだり、自由自在でとめどない話でしたが楽しかったですね。何をしゃべっても寛容にきいてくださるので弟子がしゃべりいいわけですね。楽しかった。
島田謹二 佐藤先生は晩年におっしゃっていました。門下三千人のうちで、作家としては特別にふたりをみとめた。そのひとりが太宰、もうひとりが壇一雄。これは先生からじかに伺った話ですよ。

小学館の佐藤春夫全集からだろうか、出典も探すべきだがさらに謎なのは用途だ。しかし、保田与重朗とか芳賀壇とか、名前が並ぶだけでウキウキする。そこに無頼派と言われる人たちが並ぶが、芸人でも芸術家でも、徒党を組むときは蔑称が多かったり本人が名乗ったわけではないものも多い。

井伏鱒二と逍遥の関係は、年の差は似ているかもしれないがかたっ苦しい感じがするが佐藤春夫は確かになんでも聞いてくれそうだ。同じ頃谷崎に師事というか、ゴロツキみたいにして遊んでたのが今東光で、こっちもかなりきている。谷崎と銘酒飲んだりしたくないが、佐藤春夫先生の家は遊びに行って確かになんか夜中までうんうん聞いてもらったら嬉しかろうと思う。門下三千人というところもなんだか泣ける。春夫ボットでも作るか。

 昭和十八年の秋、南方の戦線に出かけて行つた自分は十九年の春、昭南でデング熱に冒されて一週間ほど病臥した事があつた。その時、偶、ホテルの人が枕頭に持つて来てくれた改造のなかにあつたのが彼の「佳日」といふ短篇であつた。

 自分は一読して今更に彼の文才に驚歎した。全く彼の文才といふものは互に相許した友、檀一雄のそれと双璧をなすもので他にはちよつと見当らないと思ふ。

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壇 佐藤先生はライター、万年筆なんかも、よくくれましたね。「これをもつと自分のように字が書ける」とかいってね。
島田 「あなたはほかのことはよくできるけれども、筆をとってはわたしのように縦横自在に書くまでになっていない。わたくしの使うこの万年筆を使えばきっと自由自在に文字が出てくるだろうから、これをあげます」わたくも、そういうお言葉といっしょにいただきました(笑)。
壇 ちょうど亡くなる一週間くらい前ですかね。ある編集者を通じて、佐藤先生からおこられたんです。ぼくが編集者に腹が痛いから書けないといったんですね。「壇は、腹が痛いから原稿書けないといってるそうだけれども、ぼくは書かないと腹が痛くなる」そう伝えて「早く完成したまえ」といわれました。その小説、いまだに完成していないんですよ(笑)。昭和三十五年


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