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「よりましな」指導法を目指して/ダークペタゴシーの代替案

 ダークペタゴシーの代替案として何が考えられるだろうか。大きく二つの対案を示したい。
 

 一つ目は、倫理的に問題がない教育を指す「ホワイトペタゴシー」である。わかりやすい例で言えば「ほめて伸ばす教育」「カウンセリングマインド」「個性に寄り添った発達支援」などがこれに当たる。往年の映画「二十四の瞳」「学校」やドラマ「3年B組金八先生」などを見れば分かる通り、こうして教育方法は昔から規範として扱われてきた。
 教育学者で東京学芸大学の伊藤秀樹講師によれば、近年は「ほめて伸ばす教育」として、「ポジティブ・ビヘイビア・サポート」という米国発祥の応用行動療法が日本で普及の兆しを見せている。ただ、教壇に一度でも経験があれば、ホワイトペタゴシーの難しさは分かるはずである。例えば、生徒がほかの生徒に暴行を加えている状況を教師が見たら、「ホワイトペタゴシー」などといって、にこやかに振舞うだろうか。そうした緊急事態に教師が加害生徒を制止するため、必要最小限のダークペタゴシーを行使することに異論をはさむ人は少ないはずだ。しかし、これは教師が強権を振るって生徒の問題行動を威圧し続ける「安目狙いの悪手」を続けることではない。
 ホワイトペタゴシーの真骨頂は、生徒間でトラブルを対話的解決する自治能力を育てたり、加害リスクの高い子どもの「荒れ」の原因を解決したりすることを通じて、危機的事態を未然に防ぐことだ。これによって強権的統治モデルを超える活発な生徒自治モデルも実現したい。
 ホワイトペタゴシーの中にも「叱ること」をどの程度容認するかで論争がある。だが、少なくとも怒鳴りつけたり、厳罰を加えたりすることだけが「叱る」ではない。ホワイトペタゴシーは「指導」行為にはらむ暴力性を最小化しつつ、教育効果を最大化しようとする営みだ。ダークペタゴシーと比較して知識や労力、忍耐など支払うべきコストも高い「教育効果のあるホワイトペタゴシー」はその実現自体が教師にとっての目標になるのである。

 二つ目にアンチペタゴシー(反教育)である。ホワイトペタゴシーでは、教育による解決をあくまでも目指す。それに対して、アンチペタゴシーは、教育という他者介入の営みに伴う根源的な暴力性を踏まえ、教育以外の方法で代替しようとする取り組みだ。
「ブラック校則をなくそう!プロジェクト」や10段ピラミッドの禁止運動、ブラック部活動の対策プロジェクトなど、近年活性化してきた活動の中には、アンチペタゴシーの志向性が多分に含まれている。教師が持つ「黒髪直毛が生徒らしい髪型だ」「危険な技に挑戦し、けがをしても得るもののほうが大きい」「試合に勝てなければ部活をしている意味がない」といった価値観が変われば、その分「指導すべき問題」も消失する。そもそも、憲法第25条の生存権を基礎にした生活保護やベーシックインカムの制度が十分に機能すれば、人間が学習を押し付けられ、発達を迫られる状況は変わる。
 

 アンチペタゴシーが叫ばれれるのは、ホワイトペタゴシ―に危険があるからだ。一例として、全国生活指導研究協議会の会員で著名な実践家である高原史郎教諭は、「北風と太陽」の寓話を引いて重要な指摘をしている(『教育』2015年12月号)。
北風も太陽も結局は「旅人の思いとは無関係に旅人をどう動かすかを考えている」というのである。つまり、ホワイトペタゴシ―と同様に、教師の教育意図の正当性を不問にしたまま、子どもを思い通りに動かす小手先のテクニックとして使えるというわけだ。実際、「褒めて伸ばす教育」は、少年兵の訓練やカルト教団の教育でも使われている。
 だが、アンチペタゴシーも万能ではない。それは教育が撤退した後の空白を何で埋めるかが問題になるからである。例えば、教師が教育から見境なく手を引けば、学校卒業後の子ども過酷な社会に丸腰で放り出すことになる可能性がある。不要なブラック校則一緒に必要な校則も削除してしまうと、「スクールカーストで高い位置にいる生徒の言動が常に正義」という弱肉強食の生徒秩序が横行する可能性もある。
 アンチペタゴシーとホワイトペタゴシーは緊張関係にある。だが、教育の営みを法や科学に基づいて精査しスリム化することは、教師に限られた時間や労力を真に必要な領域に投入するためには必要である。
 その意味で、両者は相互補完的な関係だとも言える。「よりましな教育」を探求しつつ、「教育よりましな方法」も探求する両面作戦が重要なのである。

 ダークペタゴシー論を巡っては、「教育の手続きだけを切り取って評価することで教育実践者を委縮させる」という危惧を抱かれる読者もいるだろう。生徒にストレスを与える指導を用いることが全般的に困難になり、「うわべだけのホワイトペタゴシー」や「無責任なアンチペタゴシー」がはびこるという危惧である。
だが、注意するべきなのは「教育を巡る手続き的倫理の領野を開拓すること」と「手続き至上主義を採ること」は別物だという点である。ダークペタゴシー論は、手続の正当性を問わないまま「結果良ければ全てよし」的に語られがちな教育実践の倫理を、より多元的かつ精緻に論じるための理論である。この理論は教育の営みが不信用の目にさらされた現代こそが求められている。
われわれはダークペタゴシーに安易に居直ったり、教育現場の惨状を知らないまま安易にダークペタゴシーを全否定し、留飲を下げたりしないようにしたい。ジレンマを抱え込んだ現実の教育の中で「よりましな道」を探るため、ダークペタゴシーを冷静に語らなければならない。
 

 教育現場の現実的な困難の中では「ダークペタゴシーを駆逐する」だけでなく、「ダークペタゴシーを飼いならす」発想に一定の必要性を認める意見もあるだろう。例えば、公教育の「追い込み指導」や生徒を褒めるために使用される「うそ」がどこまで許されるのか。それらの判断基準は「教育的裁量」という名のベールに包んで曖昧にしておくべきものではない。ダークペタゴシーを使いたいのであれば、科学的根拠や権利論的証拠から、指導のリスクや個別の指導技術の解禁条件、事故が起こった場合の責任の取り方などをつまびらかにすべきだ。公教育でダークペタゴシーを解禁するための挙証責任は、それを使用する教師側にあるはずである。

 そもそも、現在の日本公教育は、ダークペタゴシーなしで教育を満足に行える環境が整備されていない。その意味では「教育公害」の様相を呈している。これは子どもの学習権侵害であると同時に、教師の労働権侵害である。
個々の指導の妥当性を巡っては、教師と生徒側のそれぞれに言い分があり、対立することも少なくない。だが、ダークペタゴシー以外に手段が残されていないような病理的な公教育は改善されなければならない。教師、生徒、保護者らの全ての教育関係者は、その一点では立場を超えた連帯ができるはずである。

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