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『推し、燃ゆ』感想文(2021/05/06)毎日note#86


宇佐見りんさんの『推し、燃ゆ』。芥川賞の受賞作としても話題になった作品で、皆様の記憶にも新しいと思います。


僕自身も気になって購入してはいたものの、いわゆる「積ん読」状態になっていたので、連休中に読み終えようと一念発起して読み始めたら、ぐいぐい引き込まれて1時間くらいで読み終わっちゃいました。

それくらい、人を惹きつける魅力のある素晴らしい作品だと思います。


今日はそんな『推し、燃ゆ』の読書感想文を投稿します!

『推し、燃ゆ』は何を伝えたい作品なのか、自分はその物語からどんなことを感じ取ったか、ということに焦点を当てますので、あらすじが皆さんの頭に入っていることを前提に書きます。つまり、ありていな言葉で言うと思い切り「ネタバレ」しますので、この先を読まれる方は自己責任でお願いします


意図せず本文が目に入ってネタバレしてしまう事故を防ぐために、「どでん」のつけ麺でも載せておきますね。

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どでんは、さいたま新都心駅と与野駅の中間くらいにあるつけ麺屋さんで、中山道沿いに立地しているのでわかりやすいと思います。大宮方面へ北上する進路をとると、与野駅前の交差点から車で30秒ほどの距離(バイパス高架下の信号に引っ掛かったら1分くらい?)に、右手に見えてきます。

有名なつけ麺屋さんなので日中は行列できているのでわかりやすいかと。並盛でも普通の大盛くらいあるので召し上がるときはぜひ気合入れていってください。



さてそれでは、この辺りでネタバレバッファも効いてきた頃合いだと思うので、本題に戻りますよ。ここから先はネタバレの嵐。読む方は本当に自己責任でお願いしますね。



あらすじ

女子校生のあかりは、「まざま座」というアイドルグループに所属する上野真幸の狂信的なファンである。そんな真幸がファンの女性を殴ったとしてネット上で炎上騒ぎになるところから、物語は始まる。賛否両論が飛び交う中でもあかりは変わらずに真幸を推し続けるが、そんなあかり本人は成績不振や不登校などの問題を抱えていて家族間や学校で孤立気味である。だからこそ真幸を推している間だけは活き活きとしていられるが、そんななか、唐突に「まざま座」が解散するというニュースが飛び込んでくる。しかも真幸は結婚し芸能界を引退するという、とんだおまけつきだった。推しを失ったあかりは、一体どのような行動に出るのか。。。



難解なクライマックス

いくつか『推し、燃ゆ』の読書感想文を読みましたが、圧倒的に触れられていたのは物語の切り出し方でした。「推しが燃えた」という印象的な短文で始まることは確かにこの作品の特徴だと思います。

しかし敢えて僕は、出だしではなくクライマックス、最後の一文に焦点を当てたい。その一文は「綿棒をひろった」、という非常に難解なものです。

場面としては、「まざま座」の最終公演も終わりファンとして燃え尽きたあかりが、その遣る瀬無い気持ちをぶつけるように綿棒の入ったプラスチックケースを床に叩きつけるシーン。最後の一文は、そのせいで散らばった「綿棒」を「ひろった」と言っているのです。
一読しただけでは、僕は意味が全く分かりませんでした。推しが引退して自暴自棄になったあかりが自らの命を絶つとか、逆に推しの家を特定して襲ってしまうとか、そういう展開になると予想しながら読んでいたのですが、あかりはそのどちらも選択せず、ただ綿棒をぶちまけて、ただ「綿棒をひろった」。

・・・意味が分からん。いろんな意味で裏切られました。

クライマックスの一文は、当然ながら物語を締めくくる非常に重要なものなので、『推し、燃ゆ』という作品に託されたメッセージは、この一文の解釈によって大きく変わってきます。



自らと決別するために「綿棒をひろった」

僕の解釈では、綿棒は死んだあかりの骨です。火葬されて焼け残った骨。
作中であかりは推し活動のことを、自らの「背骨」である、と表現しました。真幸が芸能界を引退した以上、もう推し活動が出来ないので、あかりは背骨を失うことになります。つまり“真幸推しとしてのあかり“は一旦そこで死んでしまいます。そんな死にゆく自分自身と決別するために、あかりは「綿棒」を自らの「お骨」に見たててひろったものと考えられる。なぜなら「推しを推すことはあたしの業であるはずだった。一生涯かけて推したかった。それでもあたしは、死んでからのあたしは、あたし自身の骨を自分でひろうことはできない」からです。

そのように解釈するとこの物語はハッピーエンドと言えるのですが、そう結論付けるためには、あかり自身の抱える問題や彼女の幼少期について更に考察しないといけません。




自分が憧れる自由を推しに投影する

作中では直接的に触れられていませんが、あかりは何らかの精神疾患を患っているようです。具体的に触れられていないのは、あかりが本当に病を患っているかどうかは特に重要ではなく、むしろ学校の先生や家族など周囲の人間がそういう風に(=あかりは病気だという風に)認識していることがポイントだからだと思われます。漢字や九九を覚えるのが苦手だったという幼少期のエピソードが出てきますが、苦手だということを理解されず、詰め込まれ、力ずくで暗記させられたことが苦痛だったようです。
そんなあかりの人生において最初の記憶は「ピーターパン」の舞台を観に行ったこと。舞台上を縦横無尽に駆け回り、大人になんかなりたくない、ネヴァーランドに行こうよ、と叫ぶピーターパンの言葉は「あたしのための言葉だと思った」そうです。何かを強制されたり詰め込まれたりすることへの反発心があるからこそ、自由を謳歌するピーターパンに憧れたわけですが、憎いことには、この舞台でピーターパンを演じていたのが、なにをかくそう当時12歳で子役だった上野真幸なのです。そのことも重なって、あかりはのちに真幸を推すことになっていきます。つまり、あかりにとって、推しを推すことは、とりもなおさず自分自身を肯定する唯一の方法だった可能性が極めて高いと推察されます。




これからは自分の力で生きていくという決意


そのことを踏まえてもう一度、クライマックスの流れを見てみましょう。

推しが引退する→最終公演が終わる→帰宅して、祖母の葬儀を思い出す→綿棒の入ったケースをつかんで投げつける→散らばった綿棒をひろう

あかり自身は何もしていないかもしれませんが、ただ推しの引退を甘んじて受け入れて終わったわけではなく、「綿棒を投げつけて、それをひろう」という行為に出ます。しかもその時に祖母の葬儀を思い出し、「お骨をひろうみたいに丁寧に」「綿棒をひろった」のです。
僕が、このシーンがハッピーエンドだと感じた理由は次の文章にあります。

「綿棒をひろい終えても白く黴の生えたおにぎりをひろう必要があったし、空のコーラのペットボトルをひろう必要があったけど、その先に長い長い道のりが見える。這いつくばりながら、これがあたしの生きる姿勢だと思う」

推しがいなくなった以上は自分の力で生きていくしかない。そのためには身の回りを整理してきちんとする必要があるけれど、まずは自分自身と決別することから始めよう。だから綿棒をひろおう。とりあえず。それが終わっても少しずつかがんで何かをひろっていくしか前に進む方法はないけれど、それが自分の生きる姿勢だから胸を張って生きていこう。

僕には、そんなメッセージが込められているように思えてなりません。




敢えて漢字で書いていない


これはまだ僕の中でも決まった正解が出ていなくて、今後再読していく中での宿題になりそうなのですが、ここまで散々ポイントだと説明してきた「綿棒をひろった」というシーンなのですが、「ひろう」という動詞がすべて平仮名で表記されていることがものすごく気になります。単純に平仮名で書いたほうがふんわりやわらかいから、という可能性もありますが、一般的には、漢字で表記できるものを敢えて平仮名で書いている場合、そこには何らかの意味が込められていることが多いです。
よくあるのは主人公が幼い場合。文体や表記を幼くすることで主人公の幼さを表す手法があります。しかしこの場面では「ひろう」だけが平仮名で、他の表現は「戦慄く(わななく)」とか「頭(こうべ)を垂れる」とか、どちらかというとむしろ難しい表現も多用されているので、その線は(=敢えて平仮名表記にすることで主人公の幼さを表しているという説は)、消えます。

あるいはあかりの精神的な弱さや未熟さ、幼さを表していると考えることはできるかもしれません。自分の足で立って歩くことが出来ない。作中で表されているように、「あたし」にとって「二足歩行は向いてなかった」からこそ、押しを推しているあかりは、その当時の自分と決別した現在の(=クライマックスシーンの)あかり自身から顧みると「幼い」「未熟な」存在として映る。そんなことを表現するために宇佐見さんは敢えて「拾う」ではなく「ひろう」と、平仮名表記を用いたのではないかと思います。幼少期の現実世界のあかりが勉強を苦手に感じていたことも、ここにきて伏線として効いているのかもしれない。作中の表記によるとあかりが真幸に出会った最初の体験は、彼女が4歳の頃だったから、初めて出会ったときから16歳の高校生になるまでずーっと真幸を推してきた、私は昔から変わっていなかったんだという意味を込めて「ひろう」と敢えて平仮名で表記したのではないかと思います。4歳児は「ひろう」の意味は知っていても「拾う」という漢字を認識できるとは考えづらいからです。

ただ、そうは言ってもやはり漢字を敢えて平仮名にしていることで解釈の余地は格段に広がっており、僕自身、上記の考察が的を得ているものかどうか自信がありません。それも一つの見方かもしれないけれど、読み込んでいくうちにもっと違った解釈ができるのではないか、そんな風にも思います。



余白という表現


よく、「行間の意」と言われます。敢えて何かで表現せずとも、沈黙しているという事実が特定の意味を表すということですね。
『推し、燃ゆ』については行間ではないけれど、敢えて言うとそういった「余白という表現」がふんだんに、かつ効果的に用いられているように思います。「ひろう」ひとつとってもそうです。

これが「綿棒をひろった」ではなく「綿棒を拾った」と表記されていたら、僕もここまで思索を巡らすことはなかったかもしれません。

作者がその込めた意味を一意に断定せず、あくまでもお客さんの解釈に委ねる、それこそが表現の真髄たり得るものだと思うし、文学と呼ばれるべき条件の一つだと思うし、同じく表現の世界に身を置くものとして学ばせていただかなければならない姿勢だと思いました




余談ですが100枚単位でまとめ買いしていたクレイトンのピックが、どう数えても、もう20枚弱しかありません。どこに行ったのかな?みんな。捜索願でも出すか?いや、やっぱりそこは、ピックは、ひろいにいったほうがいいか。。。



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