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劇場の鷹

スッと刺した光の線が一つ、舞台に色彩を与えた。限定的に照らされたその光の導きに従い、視線を流した先には一人の青年。堂々とした視線をそのままに、観客からの視線をそのままに、ただ真っ直ぐ前を向く姿は手作り感のある背景を置き去りにした。白いシャツに膝丈のズボン、肩から下に伸びるサスペンダーとハンチング帽。まさに好青年と言った容姿から発せられた第一声は静まり返った劇場の空気を張り替えるに十分な魅力があった。

“彼女”と知り合ったのは中学の終わり頃だった。常に両手いっぱいに本を抱え、教室の入り口から半身を乗り出すように此方の様子を見て来ては軽く会話をして去っていく。話題の大半は本(漫画)の話で、一つ興味を見せるとこれ幸いと持っていた本を差し出してくる様子が印象的だった。漫画のあらすじを語る瞬間だけは、ドアの入り口で見せる不安そうな表情が消え、目を爛々とさせていた。はて、しかし私と彼女は知り合いではない。勿論友達でもなければクラスだって違う。今から友情を築くにしても時期は中3の後半、今更だって思うタイミングでもあったし別段友人を求めていた訳でもない。だから、私は彼女への興味を失ったのだ。或いは、本能的に気づいていたのかもしれない。私の彼女の相性の悪さに。
お昼休憩や放課後にやってくる彼女は、それがいつの間にか通常化していた。ある日は流行りのトークゲームで疑い合い、ある日はカードゲームで協力し合い、またある日はトランプゲームで競い合った。共に過ごす時間が増える程人は相手を理解するもので、残された時間は徐々に彼女と言う人間の、その正体に触れたのだ。何故急に現れたのか、何故漫画を勧めていたのか、何故休み時間を共に過ごしてくれたのか、それら正当な疑問を前に、それ以前に、確実なものがあった。彼女はとても押しが強いのだ。グイグイ来るタイプと言うべきか、人と距離をとりたい私にとって此方のペースを押して進む彼女は紛れもなく侵略者。これ以上の好感を持ちたくない私を横目に、まるで階段を数段飛ばしで駆け上がる少年のようにそれはそれは軽快に、自由で、楽しそうな雰囲気で詰め寄る彼女は、本を片手に教室入り口で此方を伺う不安そうな少女では無かったのだ。なんて情熱的な人なのだろうか、謙虚さの裏に秘めた熱意に火傷しそうだった。しかし、その暖かさに慣れる時間もなく季節は桜の映える頃。
卒業前のイベントとして企画されていたものがある。それは各クラスによる演劇。シナリオ選びから始め、舞台準備と運営までを行う一大イベントである。黒板の日付が変わるごとにクラスの士気は高まり、次第に他クラスとのライバル意識が芽生えた。当日まで他のクラスのネタバレを食いたくない気持ち半分、演劇に本気になる姿を隠したいと思う気持ち半分。放課後の教室は原則他クラスの侵入を許さない。なんて暗黙のルールーが出来上がる程度には本気だった、中学最後の共同作業。ついに迎えた本番、思えばあっさりした期間であった。私は裏方を選んだので役者に比べれば練習時間も少ない、それ故の感想かもしれない。それでも、なんだかんだで本気で準備してその日を楽しみ思う気持ちがあったから教室の入り口から消えた、彼女の姿を惜しまなかったのだ。
ざわつく会場は改装した体育館。並べたパイプ椅子には全校生徒が座る。その手には公演スケジュールが握られており、開演を告げるブザーを音を今か今かと待っていた。あぁなんて眩しい。隣で震え始める役者を宥めつつ最初の公演が始まった。空気を揺らすブザーの音、徐々に暗転していく室内は次第に完全な暗闇を作り出した。視覚を失った人間は聴覚に集中する。全校集会でもここまで静かになった事はないだろう、そう思うほどに周りは静かで自分の存在を忘れそうだった。ガラガラと思い音が響く頃、誰に言われるでもなく全員が視線を前方に向けた。
-幕が上がる-
やがて暗闇に慣れた頃。スッと刺した光の線が一つ、舞台に色彩を与えた。暗闇の向こうから送られる数多の視線を受けたのは一人の青年。堂々とした姿で真っ直ぐと前を向いていた。まるで最初からその場にいる事が運命づけられていたかのように、何の違和感もなく景色に馴染む。しかし、青年の気迫は真剣だった。白いシャツに膝丈のズボン、肩から下に伸びるサスペンダーとハンチング帽。まさに好青年と言った容姿から発せられた第一声は、それまで静まり返った劇場の空気を張り替えるに十分な魅力があった。心が震える、と言う言葉は何度か耳にした事がある。ひどく感動した時など感情を刺激された時に使われるものだと知っていた。だが、体感したのは初めてのことだった。壇上に“彼女”は居た。今は彼であるが。その声は性別を意識させる事はなく利発で、明るく、自信に溢れていた。そこから先は目眩く演劇、出番は最初の数分で終わってしまったが、他の内容をこうして今も忘れてしまう程度には衝撃的だった。

その日私が知ったのは一つの劇の結末ではなく、私を知ろうとした彼女の、私の知らなかった才能であった。不安そうな顔でこちらを見ていたその人はもはや記憶の中。閉幕後、舞台から降りた彼女は悪戯に成功した少年のように、笑った。