フード・ライター
おばあさんは星のない名店をいくつも知っていた。外観はお世辞にも綺麗とは言えない。暖簾は黒ずんでいて店の名前も半分消えている。扉を開けて中に入れば、どこか別世界に足を踏み入れたような気がする。そんな店によく連れて行ってもらった。
腐りかけた壁にメニューとは違う絵を見つけた。
「あの抽象画は?」
「あれはね、サインと言って人の名前よ」
「サイン? キャッチャーが出す奴?」
「手書きと言ってね、マジックを持ち自分の名前を書くのね」
おばあさんは昔のことを何でも教えてくれる。
「手で持つの? 花火を持つみたいに?」
「箸を持つみたいによ」
「どうやって書くの?」
「書き順に沿ってはじめから」
「打順みたいなもの?」
「そうね。1から2番目3番目と続いていくわ」
「順番を破ったらどうなるの?」
「特にどうもならないわ」
「じゃあ何のためのものなの?」
「順に沿うと美しくなるの。忘れにくくもなるわね」
「そうなんだ。いちいち手を動かして書くの?」
「そうよ。それが手書きというものよ」
昔の人は色々と苦労が多かったみたい。
「あれは誰?」
「イチローね」
イチローは時を刻んだ偉人だ。
「カレーライス、お待たせしました」
ここの名物はカレーライスだ。
「わー、すごい色!」
「ずっと煮込んでいるとこうなるのよ」
食べ始めるとスプーンが止まらない。
水も飲まずに一気に食べてしまった。
「ごちそうさま!」
「うちのカレーより美味しいでしょ」
(勿論)と出かけた言葉を引っ込めた。
皿を横にずらしワープロを開くと、おばあさんはカチカチと食レポを打ち込み始める。
おばあさんの仕事は、フード・ライターだった。
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