それがなければ

 マーボーの素があった。
 冷蔵庫の扉を開けてみな動くな!と叫んだそこに見えたものは、トマトジュース、ヨーグルト、ウインナー、バター、チーズ、ソース、マヨネーズ、ウィルキンソン、みんながいたことは動かない事実だったし、「ここにないものはないぜ」とポールが澄んだ声で言い放ったことも事実だ。わかっているよ。僕だって薄々は気づいていたんだよ。
「外は雨ですぜ」
 長田さんが言うように窓の外は結構な雨が降っていた。忘れるか、家を出ていくか。僕はずっと迷っていた。
 いずれにしろ豆腐がなければマーボードーフはつくれない。

 物を書いた。
「どこに行くの?」
「わからないな」
「君はそんなこともわからないの」
 用意された下書きもなく真っ白いノートに向き合って、ただ思いつくままの勢いに任せれば、言葉となって現れるのは理屈、節、展開のようなものであろうが、遠くかけ離れたものを結びつけたり、目の前の対象一つ一つに疑問を投げつけてみたりしながら、現在地から遠ざかることを願い、突然に何か未知の着想が生まれることを祈り、自分の中から放出されていく感覚に陶酔すれば、時の経つことも忘れて現世から切り離されたところで、もはや孤独であっても孤独ではないような境地に達したあとの、届けるべきところをたずね、届かない果てに迷い、いかなる発見もいかなる停滞も、あとになってみればすべては一瞬の内に読み飛ばされていくということは事実だ。
「どこまできたの?」
「どうせどこにも行けないや」
「またいつかの道じゃないの」
 いずれにしろ書いた物は残り、それは何かが歯痒かったということの証なのだと思う。



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