リーダーシップとは何か再考してみた

6月15日と16日に、Sports Performance Summit に参加した。

(詳細は、こちら読んでみてください👇)

https://note.com/kengotsuka/n/nf420237da0ab

『日本のスポーツ界を変える』っていうビジョンを掲げ、今回で3回目の開催だと言う。

最初の講師は為末大さんで、
お題は、「リーダーシップとはなにか」

このテーマは、私自身、20年以上学生スポーツに関わる中で、考えてきたことだ。

学年が変わるごとに、監督や顧問の先生と、こんな話になる。

「新チームの主将は誰になりそうですか」

「いやー、それが、ほんとに主将やれるような選手が、1人もいなんいんですよ」

「そうですよね、私も誰になるか見当もつかないです」

リーダー不在、おそらく、学生スポーツだけでなく、これは日本社会全体に言えることかもしれない。

なぜ、日本ではリーダーが育たないのか。
いくつか要因となるものを、思いつくままに、あげてみる。

・出る杭は打たれる
・同調圧力
・リーダー教育の欠如
・村社会
・対話が苦手
・失敗に対して不寛容

リーダー不在論を、偉そうに書いているが、私自身が、まさにリーダーシップを発揮することは、高校までは、ほとんど無かったし、そして、苦手なひとりの典型だったのだ。

高2の夏、私は野球部の新チームの副主将に任命された。
そのチームは、一つ上の3年生の代では、最後となる夏の大会で、西東京で準優勝したばかりで、都立としては超強豪校だった。部員も3学年合わせて、100人を超える大所帯だった。

新チームの練習が始まって間もない頃、助監督が、私に、グランド整備をするように伝えた。私は、すかさずトンボを持って、グランド整備を始めようとした。

「バカヤロー、お前がやるんではなくて、動かすんだよ」

そうなのだ、自分がやることは、もちろん苦なくできるのだが、人に何か伝えて、やってもらう、そんな経験を、これまで、ほとんどしていなかったのだ。

もちろん、リーダーシップとは、自分が動かずに、人に指示してやらせる、ことだけを言うのではない。
しかし、当時の私には、そのチームの副主将をやるには、あまりにも、足りないことだらけだった。

副主将に選ばれたものの、私は、レギュラーではなかった。レギュラー争いに絡める位置にいたわけでもなく、チームでは1番下手くそな選手だった。

なぜ、そんな下手くそな私が副主将になったのか。

新チームの最初に、主将を決めるため、選手とマネジャーによる投票が行われた。
私は、2番目に票数が多く、3番目の選手とともに、そのまま副主将に任命されたのだ。

私が下手くそなのに、投票が多かったのは、私がというより、そのチームの伝統、文化として、あるモノの考え方が、定着していたからだ。

それは、なにか。

野球が上手いこと以上に、手を抜かずに練習をする選手の方が、選手や監督、コーチからリスペクトされる風土が確立されていたのだ。

当時の監督、佐藤道輔先生は、『甲子園の心を求めて』の著者で、高校野球界では、知る人ぞ知る、有名な先生だった。
ただ、私は、実は、佐藤先生の存在は知らず、自分の学力レベルと、自宅から近いという理由だけで、野球部の門を叩いたのだ。

佐藤先生の教えは、下記に尽きる。

「高校野球は教育の一環に過ぎない、だから野球が上手くなること以上に、高校生として大切なことがある」

現場でも著書でも、言い続けていた、その教えは、私が野球部に入った時には、完全に、チームの文化として根づいていた。

そして、その代表的なもののひとつが、
「手を抜かずにやる」
だった。

だから、手を抜かずに練習をやれる選手は、周りから自然とリスペクトされる傾向にあったのだ。
私は、野球は下手くそだったのだが、この手を抜かずにやることは、まあまあ、できた方だったのだ。これは、親に感謝だが。

話が長くなったが、リーダーシップのことだ。

私は、当時は、完全に勘違いしていた。
私が、下手くそなのに、副主将になったのは、
皆んなを、グイグイと引っ張っていく、リーダーシップがあったからではない。
そうではなくて、下手くそでも、目の前のことに手を抜かずにチャレンジする、そんな姿を、他の部員が評価してくれたから、おそらく副主将になったのだ。
それなのに、皆んなを、グイグイ引っ張るリーダーになろうとしたのだ。

それゆえ、私は、日々、自分と葛藤していた。自分の下手くそを自覚しているからこそ、苦しかった。今、思えば、その時の、自分との葛藤は、その後の人生の、とてつもない糧となっているのではあるが。

さて、為末さんのリーダーシップ論だ。

その中で、印象に残っていることが二つある。

一つは、
リーダーシップとは「先手を打つ」ってこと。

何か、皆んなで話し合って、事を進めていく時に、「こんなの、どうですかね、面白そうじゃないですかね、やってみませんか」
って、先陣を切って、声を上げること。
それが、リーダーシップの一つなんではないかと。 

ただ、為末さんが、話すように、この先手を打つ人は、なかなか、いないのが現状だ。
どうしたら、先手を打つ人が増えるのか。
それも考える必要がある。

「先手を打つ」人が、たくさん出てくるには、
失敗に対して寛容である、環境がむちゃくちゃ大切だと思う。
長いこと学生スポーツの場にいて感じるのだが、必ず、真面目にやっている選手をバカにしたり、いじったりする選手がいるのだ。
それは、発言に対しても同じだ。

「俺は、勝ちたいんよ。でも、今のような練習をしていては勝てないと思うんだ。もっと、皆んな本気でやろうや」

っていう発言を、皆んなの前で、言える環境であるかどうか。
この環境作りこそ、指導者が尽力すべきことだと思う。

二つ目は、他者を巻き込む力だ。

他者を巻き込むにも、色んなやり方があっていいと為末さんは話す。

その上で、「聞く力」が、あることも、実は、他者を巻き込めるリーダーシップがあると。
話を聞く力がある人のところに、実は情報は全部集まってくる。結果として、その事が、組織を成長させていく上で、とてつもない力を発揮しているんだと思うと。

そういう意味では、誰もが、自分の得意なことで、それぞれに、リーダーシップは発揮できるのだ。


おそらく、私の高校時代の役割は、副主将になる前と、同じように、目の前のことに全力で取り組むこと、それが一番大切だったのだ。
当時は、自分に無い、リーダーシップを求めて日々過ごしていたように思う。

ただ、だからこそ、私は、その答えを本に求めた。それまで、読書なんぞ、ろくにしていなかった私は、高2の冬から、少しずつ本を読むようになった。
そして、この読書という習慣は、55になる現在まで続いている。
もし、私が自分と葛藤していなかったら、本を読む事はしていなかったかもしれない。

本のおかげで、今の、自分の考えがあると言ってもよい。それくらい、私は、本に影響されてきた。

そして、本を読んできたからこそ、こうして書くことが出来るようになったとも思う。

リーダーシップ論のはずだった。

相変わらず、書きながら、話があちこちに飛ぶ。

最後に『三行で撃つ』近藤康太郎著より、下記の言葉を言い訳にして終わりたい。

フーコーという思想家は「本を書き始める前に、自分が何を書くか分かっていたら、その本を書く意味などない」と言った。

最初に原稿に向かうときは、真っ暗闇の中にいる。自分の書きたいもの、進むべき方向が、分からない。

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