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バンコクのチャオプラヤで命を思う

チャオプラヤ川がなかったら、私がそれほどバンコクを好きになることはなかったかもしれない。

川幅は広すぎず、狭すぎず、また、そこを縦断するボートが人々の日常の交通手段になっていているところも好きだ。

大都市バンコクを行き来する人間の、あらゆる煩悩を「マイペンライ」と、ぜんぶ流してくれているような、そういう慈悲のようなものもチャオプラヤには感じる。

ボートに乗るとなぜか、そのリズムのせいなのか、川の水をたっぷり含んだ風のせいなのか、人は普段より無口になる。

チャオプラヤ川のエクスプレスボートに乗り、川風に吹かれながら皆が寡黙に1つの方向に進んでいる光景をメタセルフで見ると、ひそかに何かの象徴に見えてくる。

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そう、私たちは川を進むボートのように、日々どこかに向かって静かに進んでいるのだ。

これはどこかで似たようなことを感じたことがあると思ったら、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のジョバンニとカンパネルラが銀河鉄道に乗っているときの描写だ。

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私たちは無限の自由を手にしているのと当時に、命という目に見えない大きな舟に乗り、生きている限りその外に出ることはない。

自由になりたい、あれもしたい、これもしたいと思いながら、私たちが体験するのはすべて、その舟の上での出来事だ。

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人は皆、大なり小なり、苦しみを抱えて生きている。私自身も、坂本真民さんの詩を拝借すれば、死のうと思うことはないが、生きるのが辛くなることはある。

そんな自分自身を、その苦しみを、チャオプラヤの水のように、包み込むように流したいものである。

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