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虹は低いところにあった

個展「Finding a Planet〜惑星(ほし)をさがす」を終えた。

ご来場くださった方、図録や写真集、サウンドトラックを買ってくださった方、応援してくださった方、そして絵を購入してくださった方、本当にありがとうございます。

また、企画から額装、販売までサポートしてくださった、篠原さん、杉守さんをはじめとするルーニィの皆さまにも心から感謝します。画家としては無名の私にチャンスを与えてくださり、2週間いっしょに「遊んで」くださったご恩は忘れません。

この2週間ずっと感じたり、考えていたのは、創作における制限と自由について。

ビジュアルアートは、写真を中心にやってきた。
音楽では、クラシック楽器を中心に使った作曲、演奏をしてきた。

写真には、いろんな拘束がある。目の前に存在しないものや光のない環境は写せないし、機械や感材の制約もある。

クラシック音楽は、確立された作曲法や奏法、技術のよしあしにどこかで縛られるし、オーディエンスからもその範疇で判断されやすい。

他方、絵画は、存在しないものも描けるし、メカや感材の制限もない。

電子音楽は、クラシカルな文脈から外れることができるし、演奏技術で判断されることもほとんどない。

今回の個展は、絵画と電子音楽を使ったことで、これまでの個展で味わったことのない自由を感じることができた。本当に大きな収穫だった。

振り返ると、私は文字通りつい最近まで、人生にまったくもって自由を感じたことがなかったことにきづいた。それは「できないことをできるようにすること」に人生のほとんどを使ってきたからだ。

もともと運動が得意なほうではないのに、十代の頃、水泳、陸上、スキー、バスケ、野球、バレーボールと、あらゆるスポーツをやった。自慢話(笑い話)があって、アメリカの陸上大会で5000m走で5位に入賞したことがある(出場者は5名)。

使いものになるのは日本語と英語だけだが、韓国語、中国語、ロシア語、フランス語等々、言語もいろいろ学んだ。プログラム言語も、Basic、Pascalはマスターした。HTMLもできる。

初心者の22歳で音楽を志したことがどれくらい無謀なものだったのかは、ここに書いた。ピアノの演奏など、音楽で何かを頼まれると、やったことがなくても「できない」が言えなくて、できるようにひーひー言いながらがんばった。

日常生活においても、根がずぼらなくせに一人暮らし時代からずっと家事をしっかりやらなきゃと自分にむちを打ちつづけてきたし、社交性のない子どもから人とちゃんと人と話せる人協力できる人になるためにいろんな努力をしてきた。まだまだだけど。

まあそんなことのオンパレード。なぜそんなに不自由なことばかりわざわざ選んでやってきたのだろう。我ながら呆れる。

だが、50を目前にして、もっと自由になっていいんだ、もっと自由を感じることを選んでいいんだとようやく思えるようになった。

できないことをできるようにと、あらゆることをやってみて、がんばって高いところに登ってみて初めて、虹は低いところにあったときづくのだ。低いところにいるときは、そこに虹があることにさえきづかない。

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