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国葬から憲法とデモクラシーを問う

(令和4年9月21日、つまり故安倍宰相の国葬儀の一週間前に「不動産経済Focus&Research」に発表した論考を公開します。)

憲法は全能なのか?

 以前より、私は「改憲」だの「護憲」だのと互いに言い募る論議を、苦々しく眺めてきた。なぜなら、「改憲」は憲法を修正しさえすれば、一方で「護憲」は憲法を不変のままにしさえすれば、つまり、いずれの主張も憲法さえ(自分たちが考えるところの)「良きもの」であれば我が国が良くなるとの、憲法をただ崇める「信仰」に近いとさえ思うからだ。 こうしたいわば「憲法至上主義」は、その実、憲法を頂点とする法秩序(法治主義)をチットモ尊重していないように映るときがある。
 たとえば、いよいよ故安倍宰相の国葬の挙行が迫り来るにつれて、それに反対する勢力がマスコミの後押しもあり、それこそ絶好の舞台とでも捉えているのかパフォーマンスを増長させるにつれ、憂鬱と同時に前述の疑問を覚えるのだ。
 すなわち、こうした反対勢力が日頃は「平和」だの「反暴力」だの、小児でも言えることを大仰に口にしておきながら、白昼堂々と故宰相 を暗殺した暴力をまるで擁護するかの言説を垂れ流すのは論外としても、今回に限らず反論の後ろ盾を決まって憲法に求めるからだ。 まず、国葬決定は国会論議を経ていないから違憲などというが、そもそも国会とは有権者 の支持をもとに構成され、その国会の信任を受けたのが内閣であり、その内閣が内閣設置 法に基づき国葬を決定している。つまり、憲法や法律に則った「正当なる回路」による決定に難癖をつけて、マスコミと共謀した「別ルート」 をもってそれを覆そうとする企図こそが、憲法のみならずデモクラシーに楯突く「紊乱(びんらん)行為」と申してよいだろう。

矛盾だらけの「信教の自由」

 さらに国葬を違憲とする反論の矛先は、国が「弔意の強制」だから憲法上の「信教の自由」 を脅かすとの非難に及ぶ。ここで思い起こすのは、毎夏、靖国神社を参拝する政治家に「公的か私的か」とマスコミが執拗に問う場面で、 これは「私的参拝」まで咎めれば「信教の自由」の侵害に相当するのを遠慮するため、と想像できる。でも英霊と同等に我が国に殉じられた故宰相への弔意表明に対して、同様に公私 を問う配慮をカナグリ捨てて潰しに掛かる姿勢は、もはや国民の「自由」の侵害を厭わぬよう にも映る。
 そのマスコミは、故宰相を暗殺したテロリストの背景には特定の新興宗教の存在があるとの情報(真偽不明)をもとに、その特定宗教をあげつらい、しかも、それに関与した与党の政治家のみを血祭りに挙げており、これは暗殺事件を奇貨とした「魔女狩り」であろう。さらに、「モリカケ桜」の既視感も覚えるが、その新興宗教と故宰相が「ズブズブの関係」だとの怪しげな類推を拡声することについては、暗殺事件の解明を放置したままのこともあり、ひたすら 加害者側を持ち上げて故宰相を貶める世論 誘導の作為さえ感じる。
 だいたい、たとえタチの悪い新興宗教であっても、破防法等の法律上の規制対象となら ぬ限り、それへの糾弾は「信教の自由」の侵害に相当するはずであろう。また、しばしば論議の対象となる「政教分離」なる原則も「信教の自由」を護るためのものに過ぎぬはず、と私は解している。たとえば明治維新後の廃仏毀釈 から国家神道の確立に至ったことも鑑みれば、 法律に拠らずに恣意的に特定の宗教を弾圧すれば「信教の自由」が脅かされるのは自明であり、それを放置すれば、やがては我が国の 文化の破壊にも繋がりかねないと懸念される。
 現政権は、今度の国葬でわざわざ弔意を強制するものではない、とことわるが、それは国葬に反対する人びとの弔意を表明したくない「自 由」に配慮したものなのだから、一方で、そうした方々は国内外の多数の人びとによる故人に 厳粛に哀悼の意を表したい「自由」を尊重し、 デモ等の騒乱行為は控えて静謐に努めるべきように思う。


「憲法至上主義」からの脱却

 今月、英国女王が逝去されて国葬が挙行された。すると故安倍元宰相の国葬に反対する 勢力は、彼我の法体系から国情に至るまでの相違をスルーして“イイ加減”な比較を始め、 英国の「本物の国葬」に比べて、我が国の故 宰相の国葬を“バッタもん”のように蔑む。
 英国の現女王が逝去されたのと異なり、故安倍宰相は我が国の天皇の任命下にある元総理大臣に過ぎぬのだから、各国からの参列者が相対的に見劣りするのは已むを得まいに。どうしても自虐的に「英国の方が上だ」としたい方々は、その崇める英国が連携強化を望んでくるほどの外交的成果を挙げた我が国の故宰 相を素直に顕彰すべきであろうに。
 さらに英国の国葬は我が国のそれと異なり 「法的根拠が確かだ」などとの言い掛かりもあ るが、そもそも英国が(成文)憲法を持たぬこと を存じないのだろうか? それほど英国が理想 とするならば、米国製しかも即席の現行憲法 など廃棄すればよいのであって、英国より長い 悠久の歴史の中で紡いできた文化や伝統を 継承し、重んじればよいのであって、それが冒 頭の「憲法至上主義者」と異なる私の立場で もある。
 以上のように法律などどうせ「都合主義」で解釈するクセに、どうして人びとが「憲法至上 主義」にしがみつくのかと申せば、失礼ながら 自分の頭でロクに考えないから憲法に依存してしまうのだと思う。現行憲法には愛国心の涵養を図る要素がなく、前文には「他国を頼るべし」みたいな文言が並ぶ。そこには、かつて福沢諭吉の説いた「自立」の精神は皆無だが、 その「自立」こそがデモクラシーにとっては必須 のはずなのだ。


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