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虐待や不登校や不眠症や薬物依存の子供がプロ占い師の幸せな男になるまでの話(仮)#2

物心がついたとは言えまだ4歳、自我や主体性というものはまだ自分にはなかった
そのため、近所の好きでもないスイミングスクールに通わせられたが、自分には根性がない
そして頑張る理由もないため、成績は中の下と言ったところだった

肌は白く体は細く、髪や目の色は明るい茶色で、唇は赤かった
自宅のうちの会社の裏にも工場があり、そちらには父方の祖父母が住んでいた

祖母の事はあまり覚えていないが「唇が紅を塗った女の子みたいに赤いねえ」と言われた事を覚えている
祖父母の家でも俺は弟を連れて暴れ三昧だった、後で聞いた話では
そのころの俺の様子を見て、祖母は母に向けて「この子達は愛されていない」と言ったそうだ
それにより頭の悪い母は俺に祖母の陰口を言い、俺は祖母を遠ざけるようになっていった

「愛されていない」
今ではまぎれもなく祖母の言う事の方が正しかったと思う。

幼稚園の年長クラスになったが相変わらず日々の自分の感情のコントロールができず
ミサキに暴力を振るい、家では弟にも振るい
そしてそう言った問題行動が原因で父には暴力を振るわれるという悪循環を繰り返していた

ある日、近所の年上の子供、小学校中学年ほどの、しかも通っている幼稚園の園長の孫について回って遊ぶことがあった
どこかのマンション備え付けの公園で、園長の孫とその友人らしき悪ガキと俺の三人でいた時
急に悪ガキの方が園長の孫に「こいつイジメない?」と小声で耳打ちしているのが聞こえた
俺は遊具に夢中になっているフリをして聞き流していたが、園長の孫のほうは乗り気ではなかったようだ
だがすぐに俺はその二人に縄跳びでグルグル巻きにされ、殴られイジメられ、泣いた

子にとって小さな頃は親は神にも等しく、間違いを犯すことのない存在
だからこそ父や母の暴力にはいくらかの納得があった

だが今回のものは違う、ただ面白いから傷つけてやろうという、遊びでいたぶられるもの
人間の明確な“悪意”というものを初めて強く感じた瞬間だった。

そんな頃、妊婦になった母が5つ違いの三男を産んだ、今までも「お兄ちゃんなんだから」とかそう言った耳タコなワードは聞いていたが、それが反抗的で落ち込みがちな性格の俺には
自我の形成時に悪影響を与えていたように思う「お兄ちゃんだから」と言う言葉は、俺に責任を嫌悪させ
そして理解から遠ざける言葉となって行った
“責任”という概念を理解できたのは30歳近くになってからだった、それほどに自分の意識からそれを遠ざける理由になっていたのだろう

ある日、幼稚園から帰った俺は元気よく「ただいま!」と言ったが、母は「静かに!」と𠮟りつけた
出産後に退院してきた母親、まだ0歳の赤ん坊
俺にとって見慣れない生き物を布団に寝かせ、寝かしつけたばかりの母の姿だった
俺は不思議な感覚を覚えた、年子の弟である次男は物心ついた時には家にいたが
そうでは無い子供が家に居て、そして俺と言う存在より遥かに優遇されている
奇妙で、そしてこれからの生活は今までとは変わってしまうんだろう、そう感じた。

そして小学校に上がった、今までは自分が一番年上で周囲は基本的には優しく
「あーそーぼ」とか「混ーぜーて」と言えば他人の輪に加わることができたものが急に変わって行った
一年生になってすぐ、学校の中で逆立ちをして遊んでいる上級生をつついたら、今までに無い反応が返ってきた
本気で怒り、嫌悪感をむき出しにして罵詈雑言を吐いてきた、俺は狼狽えるしかなかった
年上は基本的に年下を傷つける、好意的に接触はして来ないものだと学習した。

小学生になったものの自分の奇行や暴力、ミサキに対してのトムとジェリーのような関係は変わらなかった
その時期の母校は一学年はクラスはちょうど一クラス分、30人ほどで、1年で一緒のクラスメイトは6年生まで一緒を意味していた
小学2年生までの担任は30台半ばほどの女性の先生で、仮に大谷としておこう
大谷先生は厳しい教師だった、特に漢字の書き順に厳しく、お陰で今の自分が文章を書くという行為が出来ている様に思う

だが大谷先生は良い教師という訳ではなかった
生徒、特にミサキと俺は学校でも2トップの問題児になっていた
いわゆる“帰りの会”はもっぱらその日ミサキか俺が起こした悪行を裁く場所だった
大谷先生は“叱る”のでは無く“怒る”先生、つまり感情的に怒鳴る教師だった
よく「あんたは幼稚園児以下よ!いや、そんな事言ったら幼稚園児に失礼だわ!」と児童を責めていた
児童みんなに決を採らせ、問題行動を起こした一人を集団で責めて謝罪させる
狭い世界での民主主義だった、頭が悪い人間しかいない場所での多数決の弊害と、気色の悪さを痛感する時間だった

これは最近の話だが、女性の小学校教諭と付き合う機会があったため思うが、あの大谷先生はクラスをひとつのショーケース、自分の仕事の成果物として上司に見せるものとして扱っていたクズだった、俺が家で虐待されていることなど判っていただろう
だが、そんなことより自分のクラスで問題を起こされて評価が下がることの方がよほど重要だったのだろう
その証拠に学校外で俺が人の顔面を殴って鼻血を出させても何一つお咎めは無いかった。

学校での勉強はつまらなかった、退屈で、いつもイライラしていた
家ではずっとTVゲーム、ゲーム以外好きなものはなく、興味も無い
父が出張でいない時などは安心感と、ゲームが沢山できる事に大いに喜んだものだった

2年生になると九九がはじまった、これが嫌だった
算数がとても苦手だった
何故そうなるのか?の理由が説明されず、3かける6は18なの!そういうものなの!と言う言葉は暴論のように聞こえた
物事は全てもっと曖昧なものだと感じていて、そして詳細を知りたかったから納得ができず
納得ができないから次の勉強に手を付ける気にはなれなかった

理科と国語は得意だった、実験が好きだから理科が得意、いや好きだからこそ興味があり勉強ができた

人間は必要なことか、興味のあることしか出来ないものだと思う

いつもテストでは90点以上だった
国語は大抵85点だった、得意なのになぜその点数かというと、大抵の漢字は読めるし作者の意図や
教師の好む回答などは判るが、ただ漢字を10文字も20文字もノートに書くだけの退屈な宿題を全くやらなかったために
漢字は読めても書けない子供になって行ったからだ
テストの15点分の漢字の書き込み部分だけ空欄で提出したため、毎回85点だった


その小学2年生ごろ、俺は家でも学校でもふさぎ込んでいた
偶然誕生日が同じで、俺を可愛がってくれている50歳年上の母方の祖母が買ってくれた大きなテディベアをサンドバックにして、そして一緒にベッドで眠っていた
意外にも両親はあまり勉強をしない俺をそこまで責めなかった、あとで困るよ、そんな程度だった
父は高校を中退して中卒だが、勤勉なために社長として頭角を現していた、だから学校の勉強についてはいくらか放任だったのだろう
だが学校に遅刻していく事に関しては鬼の様に怒った
俺は夜9時を過ぎると興奮して目がぱっちりと開き、瞳孔も拡がり興奮状態になる夜型の子供だったため
余計に学校への遅刻は増えていった、午前10時くらいに登校することもざらにあった

職人気質の父としては社会に出た後、最も信頼を落とし他人に迷惑をかける行為が遅刻であると考えていたため
それを矯正しようとした
俺はただ心静かに、ゲームをしたり図鑑を読んでいたかっただけだが
遅刻をする我が子に人権は無しとでも言うのか
「人間は一人じゃ生きていけんのんじゃけえ!デカい鞄やるから荷物詰めて出ていけや!」
そう言ってまだ7歳の息子に鞄を投げつけていた

7歳で社会との繋がりに依る自身の生存に感謝しろ、などと言うのは不可能だ
そんな事、想像もつくはずも無い

ただただ俺は怯えて、怖くて苦しくて憎くて
泣きながら布団に横になり天井の豆電球が涙でオレンジ色に滲んでいる様を見ながら
「いつか殺してやる」そう思いながら眠る毎日を過ごしていた。


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