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ドイツ旅行2017:ヘーリンゲン(Heringen(Werra))の塩の山・モンテカリ登山

2017.09.20

塩の山・モンテカリ登山

ドイツには、日本では見られない工業景観がある。ドイツ中部のヘッセン州 Hessen の塩の山・モンテカリ Monte Kali もそのひとつだ。地下から塩(岩塩)を掘り出す塩鉱山があり、その不要物を積み上げたボタ山だ。日本のボタ山は炭鉱(石炭)の不要物だから黒いけど、モンテカリは塩の不要物だから白い。
平原の中、あるいはアウトバーンを車で走っていて森の向こうに、唐突に白っぽい山が現われる。
その異様さが気になって前年(2016年)にドイツを訪れた時もいくつか見に行ったのだが(その時は敷地外から遠巻きに眺めるだけ)、ヘーリンゲンの塩の山では頂上に登山できるツアーを行なっていると知って、居ても立ってもいられなくなった。ドイツ旅行の旅程を立てるときもツアーの開催日を最優先にして日程を合わせ、ツアーの当日を迎えた。

情報は2017年9月当時のものです。

ツアーは地元のヴェラ塩鉱山博物館 Werra-Kalibergbau-Museum の受付で申し込んで、そこから塩の採掘現場へと向かう。
鉱山敷地のゲート。STOPと書いてあるが、今日はここを通過してモンテカリの登山ツアーに参加する。

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そばで見ると、大きく、荒々しい。維持管理するために山頂に登るためのスロープが作られているのも、いかにも人工の山らしい。

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そのスロープを徒歩で登る。25%の傾斜ということだが、足元の土(というか塩)は固く締まっていて思ったより歩きやすい。降りる時など怖いくらいだ。ベルコンベアも設置されていて、頂上へ向かって伸びている。

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そうして登った頂上からの風景。上へ上へと塩が積み上げられているため、斜面も滑らかだ。いわゆる安息角で止まっているのだろう。

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頂上は整地されて平らになっている。標高は520m、登ってきた比高は100m程。
採掘した塩は白くて純度の高いもので88%程度、灰色に汚れていると75%程度で、そうした塩を麓の工場で98%まで精錬してから出荷している。鉄道でハンブルグまで運んで、その先は8割が輸出用、残り2割がドイツ国内用になるとのこと。
ちなみにツアーガイドはドイツ語で、今日は外国人は私だけだったので、後から追加で英語で説明をしてくれた。すみません。

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整地用に大型重機がいた。足元全部が塩の塊。腐食が進みやすい環境だけど耐用年数はどれぐらいだろうか。

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塩の山に登って、ふと遠くを見ると、そこにも塩の山が!
見つけた瞬間ゾクゾクしてしまった。自分が見ていたはずが、向こうからも見られていたみたいな不思議な感覚。
アニメ映画の『風の谷のナウシカ』に王蟲というダンゴムシを巨大にしたような生物が登場するが、ここから見えた塩の山はその姿にも似ていて、思わず映画の中のシーンを想像してしまった。

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↓ こちらはノイホーフの塩の山・モンテカリ

ヴェラ塩鉱山博物館

塩の山の登山が終わって、博物館に戻る。通常は博物館で事前に学習をしてからツアーに参加してねという流れのようで(ごもっとも)、なんでまた来たの?という顔をされる。それはまだしも、16:30の時点で他に客がいなかったと見えてもう閉館になると言う。なんとか頼み込んで中に入れてもらう。

もっと早く来ようと思ったけど、途中立ち寄ったフルダ Fluda の街も楽しくて、ついツアー時間ぎりぎりになってしまったのが真相。

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博物館の中は、後回しにしたのが申し訳ないくらいの充実した内容だった。写真は塩鉱山の採掘(地下)の様子で今は機械化されている。柱となる塊を残しながら採掘していく方法は、炭鉱の採掘と全く同じで、つまり鉱物資源が一定の厚さで広がっている所はこうした方法が採られる。よくよく考えたら物質は異なっても物理法則は同じだから同じ様式になるのだけど、そういうことに一々感心しながら見ていた。

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炭鉱と同じと言えば、鉱夫のヘルメットや作業着を天井から吊るす方法も、以前北海道の赤平炭鉱で見たことがあるものにそっくりだった。
タイムカードがあって、裸の写真は出坑後のお風呂だろう。

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かつて利用されていたロープウェイによる塩の運搬光景(写真↓)。これも見覚えがある。日本では、日立セメントの大平田鉱山(茨城県日立市)で採掘した石灰石を運搬するために2019年まで稼働していた。廃止後の遺構としてロープウェイを支えていた鉄塔が、小串硫黄鉱山跡(群馬県)や徳舜瞥鉱山跡(北海道伊達市)に残されている。

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屋外には、坑内で使われていた機関車やトロッコが展示してある。

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さて、塩鉱山に関する展示の充実度に圧倒されてしまったが、ヴェラ塩鉱山博物館にはもう一つの側面がある。それは、この地が1990年まで東西ドイツの境界線に位置していたという歴史である。
かつての東西国境には、国境標(写真右の標柱)とHalt! Hier Grenze (止まれ!ここが国境)という定型の警告文句が掲げられていて、分断の象徴となっていた。それも今では遺物になってしまって、博物館行きというわけだ。

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実は塩の山・モンテカリに行く途中の公園に統一祈念塔 Mahnmal Bodesruh があり、東西ドイツの分断時代は塔の上の展望台から東側を望めるようになっていた。その話はまた別の機会に。

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