さん、に、いち、と何かが 2024/3/21

またいつもの場所にいる。カフェ。時刻は17時47分。またあの時間がやってくる。夜がやってくる。来ないでくれ。もうここ数週間夜が辛くて辛くてたまらない。いつの間にか油断すると目に涙が溜まってくる。ここまでなんでもない時に思わず泣いてしまいそうになることがこれまであっただろうか。この夜。
俺にここまで残酷な試練を与えた彼らは今どこで何を? 誰と? 俺はこうしてどこにも行けず泣いてしまいそうな気持ちを抑えて、対症療法にすぎない、本質的でない、一石二鳥を快しとする性格の真逆を意地悪に突き詰めているような毎日なのに、どうしてこんなにこの日々の苦しさが違うんだ。どうして俺だけがこんな苦しんだ。どうして俺だけが。なんで俺が。なんで俺だけがこんなに酷いんだ。なんで。なんで。なんで。なんで。ちょっとした気持ちの彷徨でつかの間未来を楽しみにする気持ちになったり、これからの日々の良いところが目につくこともあるけれど、またすぐに元のどうしようもない理不尽への怒りに変わってしまう。夜だ。いつも夜が俺を苦しめる。夜なんて来てほしくない。絶望が世界に蔓延してしまうみたいだ。せめて視界が明瞭としていれば気持ちも不思議と前向きになるものだけど、夜だけは、夜だけが俺の気持ちを毎日毎日打ちすえる。どんな言葉、準備、これまで備えてきたものが今の俺に何の助けにもならない。友達も、言葉も、文化も、趣味も、五感も、何にも役に立たない。何にも俺の気持ちを根本から、本質的に一挙にひっくり返してくれる気配もない。今あまりに辛すぎる。あまりに辛い。


なんなんだ。こんなにつらいんだ。俺を守ってくれているものが世界に何重にもあると思っていた。でも今、何一つとして俺を守ってくれていない。きっと両親も、懐かしい故郷も、俺を守ってくれることはない。俺を守ってくれるのはいつでも自信、俺が俺の器量を生かして手に入れたもの、そしてそれが俺にとって心の底から誇りと思えるもの、そんなものしか俺を守ってくれないのに、今の俺にはそれを錬成することもできない。俺はそれを生み出して、またそれらに俺を守ってもらわないといけないのに、俺は今それを作れない。だから素っ裸で木枯らしを浴びているみたいな、カバーのしていないPCを床に落とすような、弱々しい柔らかいものに、明らかにそれに見合わない鋭さのナイフをあてがっているようだ。今の俺の弱り具合に対して、今の世界の冷酷さはあまりにも不釣り合いに思えて、またそれが幼心から信じて疑わなかった世の中に確かに張り巡らされている正義に対してあまりにも理不尽に思える。どうしてこんな風なんだ。
ほらそうこうしているうちに、もう、凝視して、ほんのちょっとの違いも見極めてやると決心して眺めていても体感できるくらいの速度で夜の闇が窓から差し込んでくる。嫌になっちゃうな。

こうして一日中カフェとかサイゼリヤにいると、周りにいる赤の他人すらも何だか親しみを持って見られるようになる。そして彼らがふと寂しそうだったり時間を持て余しているように見えるとそばに寄って話し相手になって欲しいと思う。しかしいつの間にかいなくなる。いなくならないのは俺だけ。俺だけが、このカフェ以外に行く場所がないからここにいる。親しみを持って他人を見れば見るほど、彼らとの違い、己の惨めさに目がいってしまう。


この胸のざわざわの正体をもう少し言葉にしてみよう。きっと、俺は自分のやりたいことを突き詰められるほど勇気のある人間ではない。いやそういう勇気に満ち溢れているふりがしたかったしそう思われたかったけど、俺には社会的に認められて反抗的な生き方をしておきつつ、一方でしっかり社会的な意味での結果を残している、みたいな状況の時にすごく自己実現が出来ている感じるように出来ている。だから本来仕事をしないでプラプラ生きていて強みが出るタイプの人間ではなかったのだ。俺はそういう自分の本当の臆病さを直視せず認めず、理想の自分なら出来るであろうと思う道を選んでしまっているのだ。その結果がこれだ。好きな人もいなくなって、家も失って、結局、一体どういう経緯を辿ったかにかかわらず、ただの28歳の無職。大したスキルもない、いじけていてここから個人事業とかを一から起こしていくような胆力も能力もない。頭の悪い、救いようのない人間。ここから俺がどうやって這い上がるというんだ。自分でここまで自分の可能性の無さに絶望しているのも人生で初めてだ。俺はいつだってどこかで、これならまだ自分の可能性が、自分の心が奥底からスッキリして、また新しくブランドニュースタート出来ると思える選択肢があった。いや、今だって一応あるんだけど。あるし、今のこんなに追い詰められている精神状態だと逆にもうそれ以外自分に残されていないんならやるしかないし、きっとそれなりに結果を出せる気はする。けれど、やはり簡単なことではないし、目の前の色々なインスタントな誘惑に絶えず自分が打ち勝ち続けられるかについてはやはり心もとない。全く絶望だ。

しかし、では去年の三月に会社を辞めたことが間違いだったのか? いや、もっとちゃんとしたバイトなり転職先なり、横須賀で見つけて金銭的に余裕があれば今の状態も本質的に変わっていたのか? 否。きっと同じだったんだ。サラリーマンを辞めていなければ確かにここまでしんどい気分にはなってないだろうし、お金の余裕もあるし、悪いことはない。でも、それは俺の過去の言葉を借りると、(きっとそういう言い方をしていたこともどこかであるだろう)本質的な人生の問いを煙に巻くような、まさに今俺が臨んでいるこの巨大な絶望、苦しみから目を逸らすような、俺を偽物に突き詰めていくかりそめの薄膜。本質的に俺はきっとサラリーマンであっても横須賀にいても好きな人が当たり前に隣にいても、この問題は避けて通れないものだったんだ。今はあまりにも薄着でそれに立ち向かわねばならない状態になっているだけ。それだけ本物の問いの前にいて、尻に火が付かねば文字通り滅びる状態なんだ。何度でもいうが、これは本物なんだ。俺のこの苦しみは本物。耐えられるのか。耐えられるのか俺よ。そう自問してみると、不思議と何だかどこまでも耐えられるような気もしてくるけれど、四六時中そうやって自問しているわけにもいかなくて、ふとした瞬間、たとえば夜闇がふと心の隙間に入り込んできた時、あるいは午前中にいつまでも、晴れ晴れとした春を予感させる、この一日を充実させねばたとえ一日だとしてももう二度と帰ってこない人生のうちの一日を損失していると焦らされてしまうような瞬間に、布団の中で、世界中でこの素晴らしい一日を無駄にしているのは全く俺だけだと思ってしまうような瞬間に、どうしようもなく、もう間違っても耐えられるものではないように思える。この苦しみ。

しかし、みんなこの苦しみと向き合っているんだ。別にこれは人間にとって真新しい悩みじゃないんだ。そして、遅かれ早かれ俺にもその苦悩が襲いかかってくる瞬間は来るはずだったんだ。それが今なんだ。そう思うことは少しだけ今の孤独な気持ちを和らげる。しかし、孤独だ。

孤独で孤独で孤独で孤独で孤独で孤独で、仕方ない。孤独だ。

世界に、俺のことを顧みて手を差し出してくれる人が一人もいないみたいだ。この苦しみに比べれば死がどうしても魅力的だ。死がどうしても自分にとって最も心地よい選択に思える。生きてないとダメだという言葉がどうにも空虚に思える。今の苦しみが終わらないことに全く苦悩する自分からすれば、あえて、特に、死ぬことでないとダメなんだとさえ思える。それはもう心の底から。死なねばならぬ。死なねば。生きているからダメなのだと。ああ。でもきっとダメなんだ。周りの人間がみんなそれはダメだと言うからきっとダメなんだ。俺はダメじゃないと思うけど、こんなに聡明な周囲の人間たちが一人残らずそれはダメだと言っているから、俺にはその根拠とか分からないけどきっとダメなんだ。まるで教科書で、地球内側にはマントルという高温な層が存在している、とか、あるいはよく分からない化学物質に、ある化学者が別の化学物質を入れてみたら何かすごい化学反応が起こりましたと書いてあることを、とりあえずそうなんだと思わざるを得ない、とりあえずそれはそれとして納得という引き出しに入れておかなければならない、そんな類の知恵として俺は自分の命の采配について考えてしまっている。まるで当事者として腑に落ちるものではない。だから、どれだけそれが客観的に正しくても、俺はこの刹那、主観世界を問題にしているのだ!と強弁すればそんな教訓は本当に何の意味もない。そういう意味で俺はまた孤独だ。

ああ、そして夜が来た。完全に更けた。苦しさが増していく。一体俺はなぜ死なないのだ。一体何が俺をこの世界に引きつける。死がこんなにも魅力的なのに、もっと深い(きっとこれは生物的なタブーに対する本能なのだ)領域でこの世界に後ろ髪を引かれているんだ。この数ヶ月思っていた、自分の存在に対するもったいないの壁は既に乗り越えられた。自分の命がもったいない、ではもはやこの衝動は止められない。止まらない。ついに、本能的な領域での否定にまで追い詰められてしまった。人が魂を失って一介の肉塊になるまでのこと、こうやって徐々に死んでいくのかな。死というのはある瞬間のことではないみたいなことをどこぞの哲学者が言っていた。つまり、病気とかでもう遠くないだろうと親戚一連が覚悟し始めて、実際に臨死の顔を看病しに行って、当人が死んだ後の世界についてある程度予感して、そしてある瞬間に魂は去っていくが、文化的な死はもう遥か昔から始まっているんだ、みたいな考え方。俺がもし明日死んだら他人はそれを突然の死だと思うだろうし、文化的に予備動作をそこまで感じないだろうが、俺にとっては全く唐突でない。俺はもう死に始めているんだ。ひとつひとつ丁寧に死に向けての扉を、注意深く、「苦しみ」、「悲しみ」、「絶望」、「薄志弱行(Kだ)」それらを鍵としてひねって、夜が更けるたびにまた新しい部屋に辿り着いているんだ。ここに来てたくさん書いているこれらの文章は言ってみれば遺書だ。いや、遺書ってのはセンセーショナルなことを言いたいわけでなく。友人の考え方を踏襲した意味での遺書だ。曰く、つまり、人はいつ死ぬか分からない以上、どんな人間のどんな文章も遺書になりうるし、どんな動画も生前最後の肉声に、どんな写真も生前最後の姿になりうる。かといって人が急に死んでしまうことなんてそんなにないから、人は特に目の前のものを自分の人生最後の面影だと思わないだろうが、それと比べると俺は少しは覚悟している。これが最後の言葉になりうることをしっかり意識している。だから、こうして生きることに後ろ髪引かれる強度と同じくらい偏執的に文章を書いていて、この指先が動き出すと普段の自分から想像もできないくらい周囲が見えなくなって、ただただ自分の心の中に沈んでいく。そういう意味でこれらの文章は本当に、俺の心の声を映していて、俺からするとこれは俺が人生が絶好調で仕方がなかった時にやってみたかった表現活動。つまり、不要なレトリックとか、どうすれば名文になるかとか、どうすれば人を圧倒できるかとか、そんな邪念の一切介在しない、本当に純粋な俺自身の声。これはとても尊いことで、いつ何時誰でもできることじゃない。たとえば絶望に心身を蝕まれきってしまった人間でなければ。

しかし、そんな後ろ向きなことを言っておいて、俺が死に到達するまでにはまだいくらかの部屋があることも同時に予感している。それはたとえば、怖い話だけれども、どうやって死ぬか、いつ死ぬか、そういう問いが浮かび上がる部屋だ。幸いにしてまだ電車を見て、それを自分の達成したいことの道具としてしか心象に浮かび上がらないような状態にはいない(何かの間違いでそういうことが起きたら甘んじて受け入れようという気持ちはある)。だから、まだ俺には猶予がある。俺はせいぜい教科書的な知識を信じながら自分の目の前に見通せる目下の予定を超えていこうと気力を振り絞ってみて、その部屋の鍵を開けてしまわないように。もうそれは祈るばかりに。ここから先の行く末は、自分の力ではどうしようもない力で支配されているように思う。俺が生きていくのか死んでしまうのか、サイコロを振って決まるような状態に思える。もちろん精神状態は最悪。悲惨に終わってしまうことを想像するとたまらなく淋しい。でももう俺にはどうすることも出来ないんだ。どうしようもなく救いがあって生きられるのか、どうしようもなく救いがなくて死んでしまうのか、確かめてみよう。
でも出来れば、願わくば。
よそう。もう俺自身の力ではどうしようもない話なのだから。期待すればするほどに、より淋しい。

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