自分の中に他者を作れるか



高校の時に、それまでのあらゆる行動指針が崩壊して何も分からなくなったときに

「自分がされたくないことはしない、されたいことはする」


ということを決めた。それはある種類のホスピタリティ性を周囲に与えて、一度目のアイデンティティ瓦解からの復活にはまずまずの結果を生んだように思う。


でもこの金科玉条には他者への想像力が一切含まれていないことに恥ずかしながら3年前くらいに気付かされた。

他者が本当に求めているのは、「僕がやってほしいこと」じゃなくて、あくまで「その人がやってほしいこと」だ。


しかし、あらゆることを自分以外誰の脳味噌でも受容することが出来ない我々人間に本当にそんなことは可能なのか?

「この人がやってほしいこと」を考えているのはどこまでも僕でしかない。その人へのあらゆる感覚、配慮という想像の材料は全て僕の感覚器官の濾過を受けている。


もちろん、そんなことはみんな分かっているだろう。

「そんな究極的な話ではなくて、相手への想像の努力を怠らないことが大事なんだよ」


そんな風に根本的な問題を保留して大人びることも確かに出来る。でも、それは自己満足以外の何なんだろう。


しかし、

「人のことなんて所詮は分からないから」


というのも、それはそれで思考停止でしかない。


世の中のあらゆる答えは運動の中にしか無いような、そんな気もする。


正解を求めて、正しさが常にぶつかり合い永遠へ近づいていく。正しさとはそのプロセスなのだろうか。


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