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子どもに嫌われるための哲学~道徳編②~

先生:はい、それでは道徳の授業を終わりにします。みんなの意見をまとめると、自分の長所は伸ばし、短所は改め、短所は見方を変えれば長所にもなりえる、ということでいいですか?

生徒:先生!質問があります!短所が長所になるのはポジティブでいいと思うんですけど、長所が短所になることはないんですか?いいことづくめなんて、あまりにも楽観的すぎませんか?

先生:長所が短所になるということは当然ありえるでしょう。ただ、あえてそうする動機はあまりありません。なぜだかわかりますか?

生徒:わかりません!

先生:ポジティブであることはいいことであり、短所は極小化し、長所を極大化することがいいことなのです。逆に、長所を短所に貶める見方は道徳的ではないのです。

生徒:なぜ長所を極大化することがいいことなのですか?

先生:逆に聞きますけど、短所が増えることがいいことだと思いますか?「短所=悪いこと」なのであり、悪いことが増えることは悪いに決まってますよね。

生徒:でも先生、ある性格がよくなったり悪くなったりすること自体が不思議です。

先生:そうですか?40度のお風呂を熱く感じたり、ぬるく感じたりするのと同じですよ。よいことと悪いことも同様にさまざまな理由で変化します。

生徒:そんなの基準が曖昧じゃないですか?個人個人でお風呂の適温が違うのであれば、みんなで共通的な感じ方なんてありえないし、もはや声が大きい者勝ち、ゴネ得みたいになりませんか?

先生:実際そのとおりですが、それだけではあまりに一面的すぎます。まず、適温は理想的には存在します。それは社会秩序を効率的に維持する目的にかなう基準があるからです。例えば、勇気があることはいいことですが、あまりに恐れを知らないのは無謀です。まじめなのはいいことですが、あまりにまじめすぎるのも考えが硬直的すぎます。アリストテレスはこのバランス感覚を中庸と言ったわけです。ところが、中庸がどの程度なのかはそれがどのような社会かによります。例えば、狩猟採集時代と現代とでは望まれる行動様式が異なることは明白です。どのように価値が発生・変化するかを論証するのはそれなりに難しいですし常に事実の追認でしかないのですが、運用上の大きな困難は、“これが適温である”と完璧に断言できる人間が原理的に存在しないことです。社会は一枚岩ではなく複数の集団の集合体です。それぞれの集団で適温が異なるのはもちろん、時代や下手をすると昨日の出来事など些末な原因によっても基準は常に変化します。そういう意味で、基準が曖昧であることは否定しません。ですが、ある集団では短所だったものが、別の集団では長所になったりするのもまた事実です。所属する集団を変えるか、性格を矯正するかによって、ある集団で許容される範囲に自分の性質を調整できれば、個人にも社会にも有益なことなのですよ。

生徒:でも、そもそも許容範囲に収めなくてはいけないのですか?そんな世の中の基準にがんじがらめにされたくありません。

先生:先生という立場としては看過できませんが、あなたを止める必然性はありません。あくまで、社会が用意した基準に従うかどうかは、個人の行動にゆだねられています。ただ、覚えておいてほしいのは、社会はあなたをがんじがらめにするばかりではなく、基準を守ったあかつきには安心や生きがいを与えてくれます。経済や法律や政治などの仕組みがあなたの生活を豊かにし、犯罪や貧困からある程度守ってくれるのはもちろん、仲間や友人や家族の存在はあなたの生きる活力になるでしょう。その代わりあなたの行動の一部が制限されます。もしお望みなそういったいっさいのものを無視して奔放に生きることも可能ですが、他人の利害と衝突する限りは他人の側はそれを許さないでしょうね。いや、これは恨むことではないですよ?例えば、あなたが自由に殺人を犯すなら、同じ論法で他人だって自由にあなたを殺すだけですから、あなたがいくらしばき倒されても文句は言えないでしょう。あとは、他人のいない場所で暮らすのもよいでしょう。絶海の無人島とか、大陸の僻地とか。ただ、あなたは文明的な現代人があずかれる恩恵にあずかれないことは言うまでもありません。真の意味で自給自足しなければなりません。繰り返しになりますが、もし自信があるのなら止める理由はありません。どうぞお行きなさい。

生徒:そんなの無理です。

先生:所詮あなたは普通の人なのです。しょうがないので、最後に励ますとすれば、誰もが学校で教えてくれるような四角四面の基準だけを目指してまじめに生きているわけではなく、修正しきれない、適応できないようなやり場のない自分の内なる欲求や衝動を抱えながらも、社会に所属することによる恩恵をある程度あずかれるその人なりの“適温”を探して彷徨いながら生きています。そのレベルになると努力などはやりもないので、どこで折り合えるかは究極的には運次第ですが、歳をとる・成熟した大人になる、というのはまじめに適応することを意味するのではなく、彷徨い方が上手くなる、ということなのです。成熟した大人は子どもに努力しろと言いつつ、努力が無力であることも知っています。多くの人にとって、“適温”は努力と無力の間にしか存在できないのですよ。

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