見出し画像

テクテク派閥#02|善意

例えば「善意」という言葉を文章の中で見つけたとき、自分にとっての善意を思い浮かべるか、「善意?存在しいひんやろ」と一旦疑うか。両者はその後の考えを大きく分岐させると思う。

生きるためにかかるお金は稼がねばならず、そのお金というのは流れもの(とはいえ一瞬前まで誰かのもの)から掠める必要がある以上、善意100%で働くのは資本主義社会において不可能なように感じる。僕はある時期まで自分の善意のようなものに疑いをかけては「でもこの立場の人からしたら嫌がらせでしかないよな」とか、さらに他人の善意に対してまで「そうやって手駒にしようとしてるのでは?」とか、思ったりしていた。

「馬を水辺に連れて行けても 水を飲ますことはできない」という諺がある。相手にとって最善の選択肢が相手から積極的に発信されたとき、選択を実行可能な状況をこちらで用意することが善だと仮定して、果たして実際に相手が実行する可能性はどのくらいだろうか?今晩洗濯物を干すことが圧倒的に善だとして、夕食を食べている間洗濯機を回したとする。僕は大体の場合、脱水後1時間以内には干すけれど、疲れた日は干すのを忘れるし、2時間以上経っちゃうと「このまま干したら臭くなるかも、、、」ともう一回回したり、次の日まで置いたりしてしまう。「今干せる洗濯物がある」のに「干さない」ことがある。自分で用意できてもこうなのに、他人に用意されたとしてもできないのは当たり前ではなかろうか。人間には身体と言語のズレが少なからずある。有言実行できる体力をつけるという意味では、筋トレにハマった人が「筋肉は全てを解決する」と言うのも分かる気がする。

じゃあ「選択を実行可能な状況をこちらで用意することが善」ではなく「選択を実行した未来が善」だとすればどうだろうか。この場合相手が「実行しない」あらゆる未来が悪となり、程度を問わずあらゆる強制力が求められる。やんわりと誘導だとか、天邪鬼を想定して煽るのも、強制力のグラデーションでしかないだろう。僕は2年くらい前に左官に弟子入りして半年経たずに辞めた。「親方についていくことが善」とまでは思わずとも「左官を続けることが善」とは思っていたので、左官をしていない今僕は悪に染まっていることになる。おそらく親方は僕を(左官として)一人前に育てることを善としていたので、親方もまた悪に染まってしまう。

今している労働について

「雑工」というフォーマットに則って仕事をしていると、真面目にやればやるほど善意とその実践の多様性に気付かされる。誰のための(特定の業者のための、工期のための、監督のための、自分の会社のための)どういう作業で(片付けで、養生で、下地処理で、)どんな仕上がり(見栄え良く、多少汚くても速く、、、)にするか。まだこれは労働で現場仕事である以上、目に見える形で出力されるため、善意の切り分けができる。同時に、誰かに対しての善意は誰かにとって悪になり得ることも分かる。僕は善意の矛先を「(今わかる範囲で)速くて綺麗に仕上がる」方に舵を切っているし、結局は「現場のため」に納得してもらう他ないのだが、ここまで全体主義が分かりやすく可視化される仕事もなかなかないのではと思う。

持続可能なコミュニティーと生活について

以前、twitterで「Vulfpeckの音楽が気に食わない」みたいな話をしたことがある。

僕はかなりファンクミュージックが好きなのだが、何故かVulfpeckのサウンドが合わなくて、「なんで?」と思っていたし、背景にある思想を知ってさらに「なんで?」と思った。Vulfpeckについては以下のDr.ファンクシッテルーさんが詳しい。

前略、Vulfpeckというバンドコミュニティは「持続可能である」ことが善である以上、バンドとしての実践は持続可能であることに捧げられる。僕がつまらないなと思ってしまうのはそこで、ただ、コミュニティーとか人との関わりの持続可能性については僕も密かに探求していることでもある。現場でめっちゃたくさんの人と長い工期で関わるのもあるし、今一緒に住んでいる人がいるからというのもある。
「持続可能が善」即ち「解散が悪」であるとき、限りなく平等な形で双方向にレーザーサイトが当たっていて、誰が、どちらが悪となるかチキンレースをしているような状態に際して、果たして人は、、、、この状態の人間に対して僕は適当な言葉を持ち合わせていない。ごめんなさい。でも違和感があるのはここなんです。

誰かと話す時、できるだけ長いことその人と話そうとして変にルールを設けてしまうとか、できるだけ長いこと働けるように休暇を調整するとか、間柄においての持続可能性を善としてしまうのは恐ろしくつまらないことなのではないかと思う。なんかめっちゃ燃えて一気に鎮火するとかでもいいんじゃなかろうか。僕自身まだ25年しか生きてないし、一番長く続いたピアノも大体12年くらいだし、なんか知らんけど長く続いたことのメリットをちゃんと理解してないのかもしれないけれど。SDGs一切達成されなくて人類滅亡しても、それを語る術があるならいいのではと最近は思っている。

なんかめっちゃ脱線してしまった…倫理学を履修していないくせに倫理について書くからこうなる。時間ができたらニーチェと和辻哲郎でも読もうと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?