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また、これかよ

時々、自分の性格や人間性の成り立ちについて疑問に思う。
ぼくは、自分でも思うくらいに捻くれてしまっているし、興味がないことにはとことん興味がない。
嫌なことは顔に出るし、人と何かをするのがすごく苦手。会話をし続けると疲れるし、ご飯だってあんまり、人と行きたくない。
値踏みされたくない、人と比べられたくない。自尊心はちゃんとある。

で、考えてみる。どうやったらこんなめんどくさい人間が生まれてしまうんだろう。この人格形成には、何が強く働きかけてきているんだろうと。


[八百万の神という概念にイラついた幼少期]

「米粒ひとつひとつにも、神様がいるんだよ。だから残さず食べなさい。」
僕は食事のたびに、こう言われた育ち、茶碗に残った、引っ付いた米粒をきれいに食べた。

でも、僕はそのお決まりの文句を言われるたびに、「なんだよそれ」と思っていた。
先にことわっておくが、ぼくは宗教や、そう言う類いの考え方を否定するつもりもないし、なんなら、「教え」の一つとして、非常にためになるし、今後も学びの参考にしたいとも思っている。

一方で、「米粒のひとつひとつにも神様が宿っている…???」とはずっと思っている。
そもそも、神様って食べて良いのかよという考えだ。
これは幼少期の頃からずっと思っている。

ある日、この言葉を言われすぎた結果、めちゃくちゃ「もうそれいいって!!」と、むかついたことがあった。
米に命が宿るなら、神様が宿るなら、全ての物に神様が宿るなら、ゴミなんて捨ててんじゃねえよ。
魚のこの部分は使わないので、ここで処理しますじゃねえよ、と。

ぼくは、納得がいかないからと、行動を曲げないとか、我が道を突き進むとか、そう言う意固地な感じでもない。この感じにひねくれてるのに、中途半端なのだ。
だから、抵抗は静かに行う。

「米粒のひとつひとつにも神様が宿っている」この言葉を言ってくる両親をまっすぐに見つめながら、その日一緒に食卓に並んだハンバーグのソースを思いっきり、啜った。

「じゃあ、ソースにも命や神様が宿ってんだよなあ!?おい!!」

口には出さなかったけど。


[小2で雪合戦は、もうしたくないなと思ってしまった]

ぼくは、別に外で遊ぶのが嫌いなわけではない。
ただ、本を読んだり、映画を見たり、ラジオを聴いたりすることのほうが好きなだけだ。
インドア「派」という言葉は、まさにピッタリ。
どちらかというとと言うことだから。
グランピングに誘われれば行くし、バーベキューにも行く。
海を見るのは嫌いじゃないし、ドライブは好き。

でも、結構飽きっぽい。
飽きたら、それはすごくやりたくなくなる。
興味がないと顔に出る。

小学生低学年なんて、冬になり、雪が積もるとみんなが雪合戦をしたがる。
ぼくの地元は、雪がたくさん降る地域だった。
毎年、冬になると雪合戦をした。

雪玉を作り、時間と場所さえ確保できれば、みんなで雪玉を投げ合った。
当てる、当たる。
これを毎日のようにやる。
ぼくは、やっぱりこれも飽きた。

しかし、冬の恒例行事で、定番の遊び。
チャンバラごっことかそういう類の遊びが大好きなお年頃。
ぼくはこの頃はまだ、流行りについて行こうとしていたし、友達とたくさんいたかった。
だから、ぼくだけが飽きたからと、雪合戦をぼくだけが辞めるわけにはいかなかった。

ぼくは考えた。
みんなが雪合戦をやりたくなくなるように仕向ければ良いんだ。
次の日からぼくはそれを行動に移した。
小2の冬だった。

何をやったのか、結論から言うと、
「雪玉を作り、泥水に浸して、投げつける。」
これである。
悪魔の所業。クズ。
この後、ちゃんといじめられるようになった。そりゃそうすぎる。

月曜日の朝からこれを仕掛けたので、週初めからみんな泥だらけ。
よく大人から怒られなかったなとは思う。

「あいつが制服を泥だらけにしてくる。最悪だ。しかもなんだよあいつ、スタミナ異常にあるから、死ぬほど追いかけてきて、意地でも泥付きの雪玉をぶつけてくる。」

競技雪合戦ではないので、コントロールが別に悪くても、追いかけまくって、追い詰めて投げつければいい。
ぼくは、「雪合戦」という文化をぼくの学校から消し去った。

ちゃんと嫌われた。
そりゃそうなのに、この「嫌われた」と言うのも、大きく、今の自分に影響を与えているけど、それはまた別の話。

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