怒りを取り戻せ!(武田砂鉄『マチズモを削り取れ』(集英社、2021)読書感想文)

読んでいると胸がざわつく。ざわざわ、ざわざわ、と不穏なものが心に迫ってくる。自分が見ているはずなのに見えていなかったこと。どこか当たり前のことになって「おかしさ」を感じにくくなっていたこと。それを、著者は「これは絶対におかしい」と繰り返し暴き出して、読者の目の前に差し出す。その正体は、日本社会の隅々まで蔓延している男性優位主義、すなわち「マチズモ」だ。

例えば、女性に対する男性のセクハラや痴漢の話題になると、なぜか「男だって大変だよ」「痴漢冤罪もあるよね」と言う人が出てくる。その一方で、被害者の女性に対しては「女性は自衛すべき」という言葉が浴びせられる。男性は圧倒的に有利な状態、女性は圧倒的に不利な状態に置かれるのだ。

この本は『すばる』での連載をまとめたものだ。女性編集者のKさんが毎回テーマを設けて、著者がそのテーマについて考えるという方法で書かれている。Kさんは、日頃疑問に感じる様々な男女の不均衡について、著者にメールで問いかける。「なぜ書店の本棚は、男性作家と女性作家に分けられているのか?」「なぜ、新幹線のトイレは便座が上がっているのがデフォルトの設定になっているのか?」などだ。このKさんの視点、疑問の持ち方、マチズモを感じとる感性の鋭さがすごい。非常に聡明な人だということが伝わってくる。

Kさんの問いかけに触発されて、著者は論考を深めていく。ニュースを読み解き、関連する文献を読み、専門家に取材する。実際に現場にも乗り込んで考える。痴漢が出る満員電車に乗ってみたり、女性が大勢歩いている道を自分も歩いてみたりするのだ。現場に現れるどんな小さな違和感も見逃さない。その熱意と思考の密度に圧倒される。

そして、著者はリズミカルな文体で、波を打つように繰り返し警鐘を鳴らす。ユーモアも交えつつ、おかしいところはおかしいと指摘し続ける。社会の歪みに強い危機感を持ち、呆れながらも、決して諦めない。その著者の姿勢に、温かな人柄と強靭な知性を感じる。

この本を通して見えてくるのは、「マチズモ」がどれだけ社会のあらゆる場所にのさばり、はびこり、こびりついているかということだ。そして、それについて、私たちがどれだけ無自覚になっているか、ということだ。私はこの本を読みながら、何度も何度も、自分の思考の枠組みをバキバキ解体して、再構築しなくてはならなかった。自分の考え方や感じ方が、どんなに脆弱でいい加減なものだったのかを繰り返し気付かされた。

例えば、会社では、女性社員は男性上司の話を頷きながら聞き、自分は極力目立たず出しゃばらないようにして、男が気分よく話ができるように気を遣う。(これは「介護」に近いのではないか?)と、私も読んでいてものすごい違和感を感じた。しかし、私自身もかつて組織の一員として働いていた頃は、そのような態度をとっていたのかもしれない。

男女の不均衡は、社会人になる以前の学生時代にも存在する。高校の野球部の女子マネージャーがこの本の中で取り上げられている。ユニフォームを洗い、お茶を用意して、細々と男子部員の身の回りの「ケア」をする。その様子は奴隷のようでもあり、母親のようでもあるのだ。同じ高校生なのに、男子部員とのこの待遇の差はなんなのだろう。

そして、マチズモが濃縮されているかのような場所である、寿司屋を取材した章。男性店主と男性客、あるいは男性客同士が、互いに値踏みし合い、自分たちの価値を確認しあって満足しているらしい、非常に奇妙な光景が描写されていた。私は高級寿司屋には縁がないので、その光景は不可解であると同時に、なぜか、神経を逆撫でされるような不快感を感じた。この不快感は、一体なんだろう、これは...。

...「くだらない」。

そう、そうなのだ。本当に、心底「くだらない」と感じた。それは「怒り」と言ってもいいほどだった。何のためにこんな状態が温存され、保存され続けているのだろう。

しかし、私も決して、この本に描かれている社会の歪みと無縁ではない。今まで、こういった男女の不均衡にさほど違和感を持たずにきてしまったのは、私自身がマチズモに絡め取られているからなのだ。厄介なことに、経験と常識は補強し合う。「これは当たり前」「昔からこうだった」「これで問題ない、だって今までそうだったもの」という経験の蓄積が自分の「常識」を作る。マチズモに塗れた経験が作る常識は、やはりマチズモそのものなのだ。

その結果、女性である自分も、マチズモに溢れた社会を作ることに加担しているのではないか、と思ったとき、ゾッとした。マチズモが現れる出来事に気づかないでいることで、あるいは気づいても容認することで、結局はマチズモを「あるべきもの」として肯定し、固定化していることになるのだから。

しかし、おそらくこの本を読んだ後は、私も含めて読者はもう「マチズモを自覚していなかった自分」に戻ることはできないのではないか。「これっておかしいのかもしれない、これもマチズモではないか?」と感じ取るアンテナと怒りを、この本は読者に与えてくれるからだ。

日本社会はこれから変われるのだろうか。厄介な蔓草のようにしぶとく根を張り、あちこちに絡み付いて離れないこの頑強なマチズモを、私たちは取り去ることはできるのだろうか。そう思うとちょっと絶望的な気持ちになるけれど、今、この本が多くの人に読まれていることに希望を感じる。一人一人がささやかでいいから、自分のいる場所で変化を起こすしかない。注意深くアンテナを伸ばして、自分の頭で考え続け、マチズモに対する疑いと怒りをしっかり離さずに握りしめながら。

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