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大切に育ててもらったというのに、愛情を感じるのが下手なのか?

世の中の親子は、LINEで話すらしい。
今僕は20代で、周りの人とかSNSなんかを見ていると、
結構みんな親とLINEで話しているらしい。
家族LINEなんて発想から既にうちにはない。
周りを見ていると、何か子供側が大人になってからも
親との気軽な空気がある。

機能不全家族、なんてのは最近目にする言葉だけど
別にそういうものじゃないと思う。
母とは子供の頃はそれこそ気軽な空気があったし、
今も仲が悪いとか疎遠だとかそういうことはない。
親父とは正直うまくそりが合わないけど、親父からすれば大事に思おうとは昔からしてくれてはいるのだろう。
とはいえ合わないけど。
そこは諦めに限りなく近い感覚でもって、適度な距離を探っている。
他者は変えらない。でも、水に流せないくらいにはこびり付いている。
ひとりっ子だし、結構大事にされてきた方だとは思う。そういう距離感だ。

世の中の親子はメールをするらしい。
連絡事項だけを送るのとは、違うらしい。
なにか相談したり、「テレビにあの人出てるよ」とか。
家族からの通知は、いつからか見えないようにした。
身体が少し強張って何か責められるかもしれない気がして。
返すし、見るけどいつか見えないようにして、そのままだ。
周りを見ていると、家族を助けたり家族に何かを打ち明けて頼ったりしているらしい。

重ねて思うのは、大事にされてきた。
自覚はある。客観的に見て、大事に思われて、大事に育ててもらった方だ。
そういう風な環境で育ててもらった。それはわかっている。
ひどいことを言われたり、嫌なことはあったけど、それとはまた別個で。
自分の中の歪みみたいなものを、家族のせいにするのは自分の場合はなんだか違う気がする。
”別個”だからそれはそれ。大丈夫。
子どもの頃を思い返すと、両親ともに楽しい記憶がある。
記憶を引き出せば引き出すほど。
母は特に、笑っている。エピソードだってある。
他のnoteで書いたようなことだって、事実だ。本当のことだ。
ポジティブなことは基本、何でも話す子供だった。
今だって、仲が悪かったり疎遠だということはない。

世の中の親子は……
世の中の親子は…………

……何を話すんだろう?何を交わしているのだろう?
何を交わせればよかったんだろう?

きっと辛いことがあった日には、言えればよかったんだろうか。
嬉しい事や楽しみな事には、一緒に喜んだり、興味を持ってくれるんだろうか。
悩んでいるときには、共感してくれるんだろうか。

辛いことがあったときに欲しいのは対処法じゃない。
辛いときに欲しいのは、セロトニンを作用させる方法なんかじゃない。
家に帰ってする会話は、やらなきゃいけないことの情報共有だけじゃない。

欲しかったのは、正しさの提供なんかじゃあないんだよ。
話を聞いてただ味方がいることを実感できれば、それでよかったんだよ。
自分の人生はどうしたって自分の力でなんとかするしかないんだから。
ひとりで闘うには、この人生はあまりにも寂しすぎる。
でも、これは決して誰も悪くない。
うちの家族はうちの家族だった。それだけで。
その中にあるのは、それぞれが自分なりになんとか生きてきた積み重ねだ。
元が地獄じゃないんだから、またそのときが来れば、
今よりも進歩した全員にとって丸い家族の形も醸造されていくんだと思う。
無いものを数えるより、もらったものに目を向けるしかないだろ。
それを元手に、これから共に生きる人に、僕自身がどう接していけるかだ。
トータス松本じゃないけど、「僕がついてる」を実感してもらえるだろうか。それには、今の僕はあまりにも頼りないけど。

世の中の…いや、
僕がこれから築くことになるかもしれない親子では、何が出来るだろう。
その前に、一緒に生きていくことを選んでくれる愛しい人に何が出来るだろう。
この傷というにはあまりにも普通で当たり前すぎて贅沢過ぎる何かを。
寄り添って話して、少しずつわかっていって。
分かち合っていけるだろうか。

愛情を感じるのが人より下手なら、人の倍注いでみようか。とりあえず。

これから大切な誰かの為に活かそう。
そうやってみんな繋いでいくんだ。

気に入ってもらえましたらよろしくお願いします