7/23 城下国際演劇祭 感想

こんにちは、弥生です。
7月23日に上ノ町会館で行われた城下国際演劇祭「~思い出の夏~」を見に行きました。
その感想をざっくばらんにまとめた記事です。

【公演概要】

城下国際演劇祭「~思い出の夏~」
場所:上ノ町会館
参加団体:EN劇集団さんたばっぐ、限定ユニットshebang、ノートルダム清心女子大学日本語演劇部(上演順)

※初日1回目の公演を見にいきました。上演順によって、公演の後味が少しずつ変わると思われます

さんたばっぐの涼一君のデビュー舞台になると聞いていたので、絶対に見に行こうと思った。
知らないうちに、転機与砲から有賀さんが客演することになっていて、びっくりした。

「伝説」の緩い前説

さんたばっぐが最初に上演するこの回だけ特別に、荒井さんと有賀さんが前説と称した雑談トークを繰り広げていた。(おそらく開場から上演まで30分しゃべり続けていた模様)

このおっさん二人は一体なにしてるんだと思ったけれど、劇場を後にしたとき、術中にはまってたことに気づく。

昼回の芝居はどことなく劇場の「日常とはかけ離れてる感」を意識して緊張してみることが多い。
けれど、この昼観劇はおっさん二人の雑談トークがだんだんと浮世離れした緩い空気を作り出していた。

今までの昼に見た芝居の中で、最もリラックスして自然体で作品を楽しめた。

演目1.EN劇集団さんたばっぐ「The Innocent world」


荒井さんの自伝的作品。
というと、少し堅苦しく聞こえるかもしれないけれど、要するにある夏に起きた荒井良太郎の悲劇を作品化したもの。
THEの治療のために、涼一くん扮する荒井良太郎が苦しむ様を笑う作品。

荒井さんが医者役として荒井良太郎が苦しんでいる姿を、本当に面白そうに見ていた。
ある種、自分が苦しむさまを喜劇のようにとらえているのが作品からもわかる。自分を客観視して笑うさまをみていると、生粋のエンターテイナーだなとも思った。面白いと思ったことにどん欲な人柄がうかがえる。

荒井さんの芝居作りの技が、あちこちに効いている。
いちばん「おっ」と思ったのは、主演の楠木君が出てすぐのシーン。
荒井さんの動作の癖、しゃべりかた(私が持っている荒井さんのしゃべりかた・動きのイメージなのかもしれないが)を1シーンだけ再現させていた。
この1クッションがあったから、楠木君が荒井さんを演じることに全く違和感がなくなる。
だんだんと楠木くんが「アライリョウタロウ」になってくのだけれど、衣装も荒井さんが着てそうなものを選んでおり、自然とその変化を受け入れていった。

お酒飲みながら友達に話す与太話的な側面が強い作品だった。
深酒しながら話す与太話ほど面白いものはない。
与太話を聞くときに「これは笑っていいのか?」「これは慰めてあげたほうがいいのか?」「同情したほうがいいのか、共感したほうがいいのか?」と、迷うことが多い私だけれど。

この作品は終始「笑い話だから」と語り掛けてくるので、思う存分笑えた。

有賀さんがとてもリラックスして芝居しているところを久しぶりに見たので、気晴らしになっていたらいいなと思った。

演目2.Shebang「elegie」

大切な人の死に際した主人公の、その後の日々を描くお話。
ストーリーラインは、とても緩やかで穏やかなので、微細な違いを楽しむ作品。

この作品の一番の見どころは、シーンの見せ方にこだわりがあること。

一番ひきつけられたのが、雪見大福を買いに出かけた帰り。踏切で電車が通り過ぎるのを待っているシーン。
ファン!という電車の汽笛とともに一瞬だけ照らされる、主人公の横顔。
それが電車の窓からの光であると気づいたときに、この作品は、日常の風景を演劇のフォーマットで描写していく作品だということに気づく。
まるでテレビで見る「ドラマのワンシーン」が抽象化されたような印象を受ける。

その後も、抽象化されたシーンカットで、主人公が過ごす日々が描写されていく。
朝のモーニングルーティーンは、テンポを崩さないように作られていて、デフォルメされた動作はまるで、海外のインディーゲームの表現を思い出す。
(ちょっと説明しにくい。具体例はthis is the policeのワンカットが抽象化された静止画の連続)
日常が少しずつ変わってはいるけれど、大きな変化がない3か月の表現は、見ていておしゃれな表現。

演技の仕方もとても丁寧に作りこまれていた。
OLの子が主人公に話しかけたけれど、良い返事をもらえずに戸惑うシーンの表現が群を抜く。
相手の顔をうかがうような上目の視線使い、断られたときの気まずさを視線ずらしで表現していく。
上ノ町会館の規模だからできる表情の細やかな動きで演技が作られていて、とても良い芝居をしていると感じる。

客席との距離感まで計算された、丁寧な作りだと思った。

演目3.ノートルダム清心女子大学日本語演劇部 
「抜錨~汐~」

人魚と人間の恋を描く「人魚姫」ベースの物語。

10代後半から20代前半の、年代の人達でしか作れない希少な作品。
こんなに純粋でピュアな作品世界を探訪できるのがとても貴重な体験として印象に残った。

作品を作った人が変に受け止めて傷つかないかが心配なので、少し丁寧に解説をする。文章のテンポが落ちることはご容赦願いたい。

この作品の一番いい部分は、まだ社会や自分の人生についての穢れや迷いがなく、純粋な幻想で構成されている美しさだ。

私もまだ10代のころは、友情と恋愛の違いに悩むことがあった。
(一応あった)

ある種、タブーと言われる恋愛にな憧れを抱いていた。
(思春期あたりでヘテロであることをはっきり自覚した)

愛が年月を超えて、優しい思い出とともに折り合いがつく様を「大人の恋」と思い、あこがれていた少女時代も一応あったのだ。
(ちなみに今は別れた恋愛の記憶は抹消されることを知っている)

私は少女性をすでに失い、精神的な恋愛や恋の憧れに一種の決着がついた「女」にとっくになってるんだな、と作品をみながら思いをはせていた。

プラトニックな恋愛の機微はとてもセンシティブで傷つきやすい。
その繊細さが「少女性」の象徴。
「少女性」は貴重な感覚器だったのに、大人として経験を重ねるうえで、すでに自分の中からは退化しきってしまったことに、少しショックを受けていた。

好きという思いがあふれて、誰かに抱き着く。戸惑いながら。

そんな行動を、私はもう取れない。あの気持ちを持っていたころには戻れない。
男性だろうが女性だろうが、子供だろうが老人だろうが。
誰かに「触れる」、誰かを「抱きしめる」ことにあそこまでの躊躇を感じない。
強いて言うなら「嫌がられたら悪いな」くらいの軽い抵抗感程度である。(しかも無視できる程度の)

あの抱きしめるシーンで感じた、役者さんの「大丈夫かな」という一瞬の戸惑いが強く印象に残った。
もし自分があのシーンを演じたら、きっと両腕でがっちりとホールドしてしまうだろう。
「あなたを失いたくない」というストレートな感情表現をしてしまう。
相手役への戸惑いや配慮を表に出すことの方が恥ずかしい、申し訳ないと感じてしまう、

「あなたに触れてもいいですか?」という、微細な戸惑いは、もうどうしたって演技ですら作ることができない。

私はもうとっくに少女ではなく、「女」になり、最近では「女」ですらなく、「わたしという生き物」に変化していっている。

「私もこんな少女の時代があった。私もこんなお伽話に心を動かしたときがあったのだ」
と、過去の幻想に思いをはせながら、彼女たちが紡ぐ少女の世界を心地よく堪能させてもらった。

【総評】

演劇祭、と銘打っているだけあり、3作品ともなかなか表に出てこないような尖った作品が集まった印象だった。

やはり長編の芝居となると、ある程度の普遍性を作品に持たせないといけなくなる。けれど、30分以内の短編となると、それぞれの作演出が持つ表現が濃縮され、ピーキーな作品に仕上がる傾向にあるのかもしれない。

今回の3作品は、それぞれ社会人劇団のさんたばっぐ、25歳前後で構成されていると思わしきshebang、10代後半から20代前半で構成されていると思われるノートルダムと、年代が3つに分かれていた。

それぞれ演劇へのスタンスの違いも感じられ、「この年代だから、この作品ができるんだ」という作り手のバックボーンを覗き見ることができた。

年代が違えば、作る作品も違う。
そして、演劇へ「純粋な思い」は、年代によっても変化していくように思えた。

「私たちが作りたい世界を構築するのか」
「私たちが思うことを表現し、見せるのか」
「私たちを見てくれる人に、何を与えるのか」

大した違いに思えないかもしれないが、そのスタンスの違いを作品として並べると出力される結果の違いに気づくと思う。

どのスタンスも突き詰めていえば演劇への情熱だと思うし、どの思いが優れているのかという愚かな議論は意味がないと思った。
どんなスタンスからでも生み出される作品のすべては愛おしい。
それぞれの良さがあり、それぞれの受け止め方があり、それぞれの演劇の見方がある。

是非皆様も、この城下演劇祭を通じて、「演劇」がもつ幅広い面白さと、深い楽しみ方の一端を味わってほしいと思った。

とても良い1日でした。

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