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闇夜と静寂に生きていた

前職の教育会社に勤めていた頃、わたしが1日の中で最も好きな時間は、あまり大きな声では言えないが、帰り道の15分だった。

退社時刻はだいたい23時過ぎなので、
会社を出て自転車にまたがれば、外はもう真っ暗だった。


駅構内に続く階段からの光が眩しかったり、駅前の24時間営業の松屋が煌々としていたり、タクシープールに連なる「空車」の赤文字以外はすべて、夜の闇にのみ込まれていた。

それも過ぎて駅裏を通るときは、
ロータリーと呼ぶには小さすぎるその場所で、若い男の子たちが4,5人、ガタガタとタイヤを鳴らしながらスケートボードに興じていた。


しかしそれも過ぎて、
線路沿いにまっすぐ北上する道々になると、本当に誰もいなくなるのだ。


このアパートまでの15分、わたしは仕事のことは考えない、と決めていた。
結果として、たぶん、それがこの帰り道のよさだった。


風を頬に感じた。

春は夜桜が揺れて散るのを、
夏は公園の昏い木々のざわめきを、
秋はすすきのなびくさまを、
冬は金木犀の香りが花をかすめるのや遅くまで営業するおでん屋のあたたかなだしの漂いを愉しんだ。


星なんてちっとも見えない空を見上げた。

そんなものよりも、
通りすがるコンビニや、
年中イルミネーションされた小さなスナックや、
誰も見ていなくとも赤や青に稼働する信号機や、
新しくできたコインランドリーの方が眩しくて現実的だった。


たまに見かける人をちらりと観察した。

ふくらはぎのいっぱいに膨れたOLも、
肩も首も内側に入れて携帯をいじるサラリーマンも、
とんこつラーメン屋さんから出でたスウェット姿の若いカップルも、
みんなみんな知らない世界を生きる人たちで、一瞬のうちに、けむりのような軽さでわたしの視界から過ぎ去っていった。


それから、
自転車を捨て去って、
携帯も放って、
少ない終電のどれかに乗り込むかあるいはタクシーを捕まえるかして、誰も追ってこられないくらい遠くに逃げてしまう自分を想像した。

そんなことが本当にできて、
ルールだとかルーティーンだとかのしがらみから抜け出すことができたら、何をしたいかを想像した。


まずは、30分でいいから、ゆっくりお風呂に入りたい。
頭の中で顧客情報を整理したり、明日のTODOに漏れがないかを4ヶ月先のスケジュールと照らし合わせながらシャワーを浴びるのではない。

広くていっぱいに張った浴槽に、ざぶんと肩まで浸かって、ざばざばとお湯があふれるのに笑いながら、身体中が癒され、細胞がジュワジュワと喜ぶ音を聴きたい。


それに、滋養のある、美味しいものを食べたい。
手軽なコンビニ食をパソコンの前でありつき、途中で誰かにこの後振る予定の仕事について相談をされたり、緊急の電話に箸を置くことはない。

明るく静かな場所で、一人で、口に含んだものを咀嚼するときのはじけるような味わいにめいっぱいの幸福を覚えたい。


あとは、身なりをきちんと整えて、大好きな人たちに会いたい。
疲れて髪がボサボサだとか、わたしの住む街から、家族や恋人のいる街までは新幹線と電車を乗り継いで4時間かかる事実なんて関係なく。

大好きな人たちと顔を合わせられる距離で、
今日はどんな光景に微笑ましくなったか、最近言われて嬉しかった言葉はなにか、自由で優雅なおやすみの日には何をしたいかを、時間を豊かに使い、くつろぎながら話したい。



あの頃のわたしは、ちょっと疲れていた。

帰宅し、寝支度を済ませて就寝し、その4時間後には起床して出社し、同じ1日が始まるのだと思うと、

この帰り道の15分こそが、本当の自分に少しずつ戻っていくための、1日でこさえた皺を少しでも伸ばすための、心にただ素直になれる時間だったのだ。


いつも見守ってくれていた、あの街。
あの闇夜と静寂。
生きるためには必要だった時間。

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