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美しき女体と、心の在り方

わたしは女性が好きなので(男性も好きだが)、銭湯に行った時には正直、(あまり卑猥に聞こえる発言はアレなので、控えめに言って)かなり興奮して見入ってしまう。

バレない程度に、不躾にならない程度に、それとなく、だけど、しっかり盗み見をしてる。
ただ、決していやらしい意味ではなく、動く「おんなのカラダ博物館」に訪れたような、静粛な、厳かな気持ちで。


眺めていると、いろんなカラダがあるなあ、と、大変しみじみするのだ。

カラダ全体の薄さや厚さも、乳房の大きさや輪郭も、腰回りから下半身の曲線や肉付きの仕方も、筋肉の発達の仕方や隆起する部位も、ほくろ(あんなところにあるのは…ずるい!!を見つけると特に嬉しい)や古い傷の位置も、細かく、それらの違いを観察してしまう。


産後ならまだしも、まだ高校生か大学生に見える子が、折りたためそうなくらいのっぺりとした乳房をしていたり、古希は迎えていそうな方が、5度見してしまうくらい綺麗なお椀型の乳房をしていたりなど、そういう発見も、なんだか既成概念のはずれる感覚を覚える。


それぞれの部位に、その部位の持つ表情に、コンプレックスもあればチャームポイントもあるのだろうなあと思うと、わたしはなんだか、その場にいる全員が愛おしくなる。


わたしは時折、1つの趣味としてストリップ劇場を訪うのだが、あのステージに立つストリッパーたちが美しいのは、それぞれのカラダの特徴や個性を最大限に受容、許容して、表現している所にあるように思う。


一糸纏わぬ、という表現があり、ストリッパー達は一景(1ステージ)毎のテーマに合わせて薄いマントやネグリジェのような衣装を羽織っていたりするので、それは物理的にはそぐわない表現だけれど、

でも、彼女達は心が丸裸だ、と思う。


暗い会場、ステージに立つ自分を照らす桃や青のスポットライト、手を伸ばせば届くような距離から浴びるおじさま方(最近はわたしのような女性客も多いらしく、わたしが行く時も大体2割は女性がいる)の視線。


彼女たちはプロなので当たり前だけど、観客の前に立つ時、一切の隙や動揺を表に現さない。
順々に観客の瞳を見つめ返し、マリアさまのような深い慈しみのある笑みを送ってくれる。


そうして、優美だったり、グルーブ感のある音楽に合わせて、次々とアクロバティックなご開帳のポーズを決める。
彼女達は恍惚とした表情をしていて、額や眉間に美しい汗を、つつつと垂らしている。
パフォーマンスが本当に芸術的で圧巻だ。


ここで大切なのは、圧倒的な「これが私!」感、が彼女たちから伝わる、ということだ。

隠すものが何もなくて、絶対にごまかせないし、ごまかさない。

強い自己認識と自己受容と、その域に達したことによる彼女たちの深い自信を感じる(あるいは、そうと感じさせる表現力)。


観客として座っているわたしもご開帳の度に拍手を送りながら思わず、最早この場合はこちらも脱ぐのが礼儀なのでは?とブラウスのボタンに手をかけてしまうほど(冗談。妙な真似をするとスタッフに即座に捕まるのでルールはきちんと守りましょう)、彼女たちが自分のカラダを全肯定してステージに立つ姿は、胸を打たれるものがあるのだ。

(是非ストリップ劇場に足を運んでみてほしい。会場によるけれど、女性は3,000〜4,000円で観れるので意外とお手頃)


わたしはもしかしたら、銭湯にいる女性たちと、心を通わせたいと思っているのかもしれない。

こんなにカラダを相互に見せ合っている(?)のに、みんな不思議なくらいしらけた顔でヨソヨソしく素通りしていくので、それがかえって不自然な気がしてくるのだ。身体はまさに一糸纏わぬ、だが、心は完全に閉ざされている。


まあ目的が違うし、と寂しくも納得しつつ、それでもやはり、どんな女体も美しい、と思う。自分が自分のカラダに受容や許容をできていれば、きっとなおのこと美しい。

コンプレックスもチャームポイントもありきであなたなのだと、わたしは銭湯にいるすべての女性たちの存在を全肯定しながら、ひそやかに、つつましく、眺める。


そうして満足した気持ちでザブリと40°の湯から上がり、どうしようもう一度露天風呂の方にも行こうかしら?と、うきうきしながらぺたぺたと移動する。銭湯は素晴らしい。

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