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【SS】春待ち

山の奥。
湖の畔、辺りは柔らかい草が靡いている。
そばに聳える一枚岩の上が私の定位置。
小さな滝が湖を潤している。
水を飲みにくる小鳥や、足を休める動物たち。
地はそれを受け入れ穏やかだ。
そんな様子を、毎日飽くことなく眺めている。
どれだけ見つめても、何も私に気づくことはない。
ただ一人で見ているだけ。

岩の奥に進むめば洞がある。ここが私の源。
あるのは鏡と瓶子が二つ。
入り口は木の根に覆われている。
今はもう誰も知らない。何も来ない。


いつかも思い出せない遠い日に一人の人間の男が来たのを覚えている。
男は、足元に転がっていた口の欠けた瓶子を拾い、酒を注ぎ、手を合わせた。
男はこちらを見ていたが、私は顔を向けることはしなかった。
そしてまた来ると残し去っていった。

注がれた酒のひとつをいただく。
それは甘い酒だったが喉が少しひりついた。


ふたつの瓶子の酒はもう乾いていた。
季節が何度過ぎようとその男は来ることがなかった。
風も吹かない洞の中、瓶子がひとつ転がり落ちる。
その様を見送った。
瓶子は、小さく音を響かせ割れた。

もう待つことはしなかった。



あれからどれだけ経ったのだろうか。
山の麓には人間の村ができている。
時折生活の様子が風に乗り、岩まで届く。
飯の煮炊きする匂い。赤子の泣き声。
人間の生きている証が届く。
人間という生き物が少し見え、理解した。
あの男はもう、いない、だろう。
人間の生は長くない。

いつものように岩の上から湖を眺める。
春を呼ぶ日差しがキラキラと湖に映っている。
時折魚が跳びはねる。
今日は特に穏やかだ。静かに時を刻んでいる。
私は目を瞑り気を吸った。

もう待つことはない。
そう決めたのに。
…名でも分かれば呼べたのかもしれない。
あれから時が経ち、これが後悔なのだと知った。
あの時は知る術も必要もわからなかった。
「名は、なんというのだ。」
返事のない問いかけが無駄なことだと分かっていも、問わずにはいられなかった。
これが寂しさというものなのだろう。
一度来た人間に。…なぜこんなにも、苦しいのだろう。


突然、風が吹き、影が覆った。
目を開くが逆光でうまく見えない。
鳥か。それにしても大きい。
近づいてきたのは黒い翼だった。

段々と近づいてくると、姿が見えてくる。声が出ない。
翼はバサバサと鳴らしゆっくりと岩の先端に降り立った。

誰一人、何ひとつ私に気づくものは、いないはずだなのに。
なんで。

「ようやくこれた。」
それは白い衣を纏い、黒い翼を持ったあの男だった。
「なん、で。どうして。」
「また来るって、言ったじゃないか。」
「…見えているのか?私が…」
「やっと見えるようになったんだ。時間がかかってしまった。待たせたな。」
男はゆっくりと近づき、そっと私の両の手を取った。
「もう見えるし、触れられるし、ほら、話せるよ。」
男は目尻にシワをつくり、歯を見せた。握る男の手は温かかった。
「これからよろしくな。おれ、話したいことが沢山あるんだ。君もあるだろ。」
ぼやける視界。詰まる喉。絞り出す。
「…名は、名はなんという?」
「泣くな。たくさん、たくさん話そうか。」
嗚咽が漏れる。苦しい。熱い。胸の辺りが、痛い。
握られていた手を引かれ、抱き留められる。
温かな手は私の背中を優しく撫ぜる。
その温もりが、背中から頭、目頭に駆け上がって、熱となり、涙は止まらない。
「私も、私もだ。たくさん…。」

たくさん、知りたいこと、伝えたいことがあるんだ。

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