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探究、険しくも愉しい自問自答の旅。

「探究」がこれからの教育のキーワードとして認知されて久しいですが、これは一体何者なのかをずっと考えてきました。先日、神奈川県の公文国際学園で地理の教師をされている、友人の齋藤亮次先生とオンラインと対話したときにいただいたインスピレーションをもとに、「探究は険しくも愉しい自問自答の旅である」という視点で考えをまとめてみようかとおもいます。

齋藤先生は地理の教師でありながら、キャリア教育に関心を持たれています。対話をするまでは、キャリア教育にわずかに胡散臭さを感じていました(偏見)。しかし、齋藤先生が今年度1年間の育休を取られ、キャリア教育について真剣に思考された過程を伺うと、生徒の学びの過程を看取る役割としての教員は、これからの学校教育の重要な価値になるのだと気づきました。学校のなかで生徒が、探究という、険しい自問自答の旅に挑むとき、旅の中で険しさを愉しさに変え、成長していくためには、その旅を共にする味方が必要です。この味方としての教員が、これからとても重要になるのだとおもいます。

探究のサイクルの絵がよく出回っていますが、これが探究のイメージを誤って認識しうる可能性もあると個人的に思います。なぜなら、真剣に探究すればするほど、あんなにわかりやすくStep by Stepでサイクルが回っていくことは起こりにくい(というか起こり得ない)からです。後ほど書きますが、探究の旅の熱源のひとつは自問自答だと思っており、熱源が足りなくなった時点で一度道を引き返し、切り株に座って自問自答をする必要があるとおもいます。そして、Step by Stepで行くわけがないからこそ、その旅路に寄り添う教員が必要です。探究における教員の役割は、生徒の探究の旅の行程表をつくることではなく、生徒が探究の旅をしながらアップしたインスタグラムの投稿に「いいね!」を押したり、コメントを書いてあげることなのです。

越境ー旅のはじまり

探究の旅に出発することを、齋藤先生は「越境する」と表現されます。自分のコンフォートゾーンと外の世界を区切る境目を越えて、外の世界へと足を踏み入れます。

なぜ旅に出ようと思うのか、その理由のひとつは「自分の身の回りで起こる出来事が、他者(社会全体)にも関わる問題なのかもしれない」と気づくからだと思います。これをブレークダウンしていくと、まず自分の身の回りで起こる出来事に眼を向けること、起こった出来事にリアクションすることの2つがあるとおもいます。

例えば、学校の教室にある教壇や教卓は、どの教室のものも同じデザイン・同じサイズであることに気づき、これは一体どうしてなのだろうかと疑問を持つことができます。先生の性別や年齢、体格は皆異なるはずなのに、どの教室も統一された規格のもと作られている。これは、誰かが「標準的な教員の体格」を定義してデザインしているからなのかもしれないと想像を膨らませます。そして、それがもし男性のものであったとするならば、どうして標準的な教員の体格は男性の体格を基準に定められているのか、さらに想像の幅を拡げていきます。

このように、身の回りにある出来事に眼を向けて、そこから想像を拡げていくことが、探究の旅へと導くスターティングブロックになりえます。(もちろんこれだけではないかと思います)

この時点ですでに、自問自答の過程もスタートしています。興味を惹かれた自分を認識し、なぜそこに興味を惹かれたのか考えるのです。自分の内面に向き合うこの行為は一見、身の回りの出来事から想像を拡げていくことと逆の行為に見えますが、自問自答を繰り返すことが探究の旅路を歩む熱源になります。

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「なぜ(Why)」の平原

なぜ、の過程は平原のようなイメージです。なぜ、から問いを水平方向に拡張していく方向もアリだし、問いを深掘っていくのもアリです。その意味で、なぜの段階は無限の道の進み方があります。僕が平原を突き進んだときは、具体と抽象を往復する姿勢が役に立ちました。抽象的に思考することが得意なわけではなかったので、具体的に物を作り、その物を動かしてわかったことをもとに、次の「なぜ」に進みました。

僕は学校の教室って面白くないよね、という、残念ながらびっくりするぐらいありきたりな感情と向き合うところからはじめました。まずは、教室を学校の外に作ればいいのではないかと考え、企業のオフィスに高校生を集め、大人と高校生が対話をする場をつくってみようと思い付きました。企画自体はうまくいったのですが、この場に集まった高校生は意識が高い層が圧倒的に多かったことを疑問に感じました。なぜ、高校生のあいだに、これだけ「学ぶこと」への認識に違いが生まれるのか、というのが、次の問いになりました。

「どのように解決するか(How might we...?)」の山登り

どのように解決するかを考えていく過程は、なぜに比べるとある程度道が定まっており、エネルギーの必要な道です。エネルギーが必要ということは、熱源となる自問自答がより必要という意味です。自分が高校生だったころは、限られたリソースや能力のなかでどう問題を解決していくのかを一生懸命考えていました。自分が向き合っている問いに対して、すでに過去に挑んだ先人がいたり、自分よりも明らかに高いスキルや多くのリソースを持って同じ問いに挑んでいるプレーヤーがいるなかで、自分が問いに向き合う価値に悩みました。これは、Whyの平原では感じなかった感覚です。

自問自答の山下り

探究の旅は険しいもので、必ずしも同じ山をずっと登りつづけるわけではありません。自分が登っていた山を諦め、引き返すこともあります。あるいは、途中で方向性を変えて、目指す山頂を変えることもあります。なぜなら、探究の旅は、生徒の身近な出来事の気づきや感情という、とてもとても小さな火種からはじまるからです。その火種を熱源にして山を登っていくわけですが、ときには途中で転んだり、土砂崩れに巻き込まれたり、嵐が吹いて火が消えることもあります。そうすると、山を下る選択をする可能性も当然あります。

山を降りながら、生徒はよりいっそう自問自答を繰り返します。自分は何者なのか、そもそもなぜこの問いに興味を持ったのか、これまでの過程を振り返っていくのです。この自問自答を繰り返すことで、だんだんと熱源が溜まっていき、ふたたび「なぜ?」の平原や山登りに向き合いはじめることができます。

熱源としての自問自答

高校生は、教科としての探究を行いながらも、その熱源となる自問自答を、学校生活の様々なところで何度も何度も行います。部活に励む生徒は、部活の中での自分の立ち位置や、チームへの貢献、先輩後輩とのコミュニケーションを考えるかもしれません。恋愛で、自分が相手に良かれとおもってしてあげたことが、かえってお互いの関係を傷つけてしまい悩むこともあるかもしれません。生徒が生きる中で感じる様々な種類や大きさの自問自答のすべてが、探究の熱源になりうるとおもいます。

最も大きな自問自答のひとつが、進路かとおもいます。大学に進学する場合、自分が探究してきたことを、大学でどう発展させていくのか。あるいは、探究を諦める生徒もいるかもしれません。自分は何者なのかを必死に問いつづける中で、進路を選んだり、志望理由書を書いたりします。そして、その過程に寄り添う進路相談の場(キャリア教育)は、探究の熱源を醸成するためにも非常に重要な役割を果たすのです。

自問自答の道は、険しくも愉しい。

自問自答を繰り返すのはとても苦しい行為です。自分がどれだけリソースを投入しても、社会全体の大きな流れや軋轢には逆らうことができないのだと知り、絶望することもあります。それでも、繰り返し問いつづけながら、試行錯誤を繰り返して探究の道を進み続けることは、とても愉しいことだとおもいます。

理由のひとつは、険しい道程を進んでいると、助けてくれたり、一緒に道を歩んでくれる仲間に出会えるからです。僕もこれまでたくさんの仲間に恵まれ、そうした仲間と出会うたびに、探究の旅も悪くないなぁと思ってしまいます。仲間との出会いが、自問自答をさらに深めたり、これまで自分が見たことのなかった景色へと連れて行ってくれることがあります。

もうひとつは、探究の旅を続けていると自分の成長を実感できるときがあるからです。前の自分よりも、大きな熱源を持って歩めていると実感できたり、これまで見たことのない景色に到達できたとき、この先へ進んだ自分はどう変化しているのだろう、この先にはどのような景色が待っているのだろうと、旅を続けることへの期待感がどんどん高まっていきます。

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このnoteはあくまでも、齋藤先生との対話から着想を得て、自分の体験をもとに描いたものなので、このパターンが他の生徒にも当てはまるとは限りません。ただ、探究とは一体どういうことなのか、そのイメージや感覚を共有したく、今回は旅にたとえて考えを整理してみました。

探究の旅に出ると、自分が経験を重ねたからこそ得ることができる知が蓄積されていき、自分だけの教科書を持つことができます。これは、他に代えがたい、素晴らしい体験なのだとおもいます。教科としての探究が導入され、「生徒の学びを看取り共に歩む伴走者」としての先生が全国に増えることで、これからたくさんの学生が、自分だけの教科書を持って学校を卒業していくと良いなとおもいます。

齋藤先生の素敵なnoteはこちらから↓



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