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「わたしのもの」とは?

大学の課題で、素敵な詩と出会いました。

My/My/My   (by Charles Bernstein)
my pillow
my shirt
my house
my supper
my tooth
my money
my kite
my job
my bagel
my spatula
my arm
my painting
my founting pen
my desk
my room
...

https://poets.org/poem/mymymy

"My"という所有格代名詞は、名詞に「わたしの〇〇」という意味を加えます。pillowは「枕」、my pillowは「わたしの枕」といった具合です。

Conceptual Writingというスタイルで書かれています。カメラの誕生で絵画は価値を再定義していった。デジタルの発明で「書く」ことの価値も再定義すべきだという考えに基づいたスタイルです。

SNSでのリツイート・リポスト・シェアが当たり前の世界で、言葉や考え方が「わたしのもの」であることの意味はどこまであるのでしょうか。

これは、僕が教育の世界で悩んでいることでもあります。持っている知が「わたしのもの」であることの意味はどこまであるのか。「わたし」の中に知がたくさんあることの意味はどれくらいあるのか。そもそも、自分のなかにある知で、「この知は『わたしのもの』です」と言えるものはどれくらいあるのか。

そんなことを考えながら、昨日図書館から寮への帰り道でたまたまFacebookを開いたら、チームラボの新しい展示の情報が投稿されていました。

そこに、こんなことが書かれていました。

Matter is Void - Black in White
チームラボは、《Matter is Void》を通して、所有とはなにかを模索する。
この作品は、NFT作品である。この作品のNFTは1つだけだが、NFTによって作品の唯一性は付与されない。作品自体は誰でもダウンロードし、何人でも所有することができる。つまり、NFTを所有していようがしてなかろうが、ダウンロードされた作品は、何も区別することができないし、全て本物である。
この作品は、チームラボによって「Matter is Void」と書かれている。しかし、この作品のNFT所有者は、作品内の言葉を自由に書き換えられる。NFT所有者が言葉を書き換えると、世界中で所有されている全ての作品が、その言葉に書き変わる。
そして、NFT所有者の言葉により、作品の価値が変化するだけでなく、その言葉に価値があれば、作品を所有する人は増え、その言葉に価値がなければ、作品を飾る人はいなくなるだろう。多くの人が見ている作品を書き変える価値は高いかもしれないが、誰も表示していない作品を書き変える価値は低くなるかもしれない。すなわち、NFT所有者の言葉によって、この作品のNFTの価値も変化していくだろう。

https://www.teamlab.art/jp/w/matterisvoid_blackinwhite/aomorimuseum/

所有とはなにかを模索する、まさに、考えていたところでした。

チームラボも一部携わっている、北海道安平町に新しく建てる義務教育学校のプロジェクトのコンセプトも、これに近いものがあります。

今までであれば「音楽室は音楽室」、「美術室は美術室」、「家庭科室は家庭科室」という設計にして、物理的に空間を分けます。また、地域の方々のコミュニティセンターは、スタジオ・アトリエ・キッチン教室としてそれぞれ分けて設計し、物理的に箱として違う空間を作っていたという具合です。ICTを活用し、学校の「音楽室」としての機能と、コミュニティーセンターの「スタジオ」としての機能を、一つの空間に共存させる。美術室とアトリエ・家庭科室とキッチンも同様です。物理的には同じ空間であっても、生徒から見れば音楽室・美術室・家庭科室。いっぽう地域の方から見ればそこはスタジオであり、アトリエ、キッチン教室であると見ることができるんじゃないかと思いました。この発想をもとに、学校の中に地域住民と共有できる空間「学校共創空間」をつくり、時間帯によって生徒が授業で使用したり、地域住民の皆さんが自由に使ったりできるようにしようと思います。

https://www.town.abira.lg.jp/kosodate/asobimanabi/gakko/1451

安平町に建てる新しい学校は、学校の建物ひとつに対して「生徒が使用する学校施設としての役割」と「地域住民が使用する地域施設としての役割」を共存させることを目指しています。建物を、「生徒のもの」「地域住民のもの」でわけない。その共存がデジタルを活かすことによって可能になったのです。

この空間で暮らす生徒のみなさんはきっと、「『わたしのもの』とはなにか」を考えながら過ごすのかもしれません。地域住民と生徒先生の共用スペースは、生徒の教室からも見通せるように設計がされています。これは、今自分がいる空間が「わたしのもの」だけじゃない。そこに他者の存在があって、「みんなのもの」でもあるということを、生活する中で自然と体感できるのだと想像しています。そして、この空間で9年間育ち、卒業する頃にはきっと、自分のなかにある知や、身の回りにある物に対して「わたしのもの」と明確に線引きしようとするのではなく、あらゆるものが「わたしのものでもありみんなのものでもある」と考えた上で、世の中の課題に対してお互いの知を共有しあい、お互いの資源を活かし合いながら解決していくことができるようになるのだとおもいます。これは、生徒が学校に集まって共に暮らすからこそ身につけることができる感覚なのかもしれません。デジタルを活用して設計された学校で、デジタル化された教育によって抜け落ちる価値を学ぶことができるのです。

教育dXや学習指導要領の改定(探究学習のスタート)で、学校教育は新しい次元に向かおうとしています。個々の政策ベースや、プレイヤーベース、学校単位での改革事例を生んでいくことも非常に大切ですが、僕としてはそもそも学校とはどのような場所なのか、学ぶとはどういうことなのかをもっと考えていきたいとおもっています。

そのうえで、「学校を社会に開くのではなく、社会のなかに学校をつくる」という考えが大切なのかもしれないとおもっています。これまでは学校が、「生徒が一定量の知を獲得(蓄積)する場所としての役割」にウエイトを置きすぎた結果、生きること暮らすことと、学ぶことに距離が生まれました。(月曜から金曜まで、朝の8時から夕方の4時まで8時間拘束したり) また、先生に「知を持つもの」として「生徒に知を授ける仕事」を担ってもらうことを重視した結果、先生は「いかに知を生徒に上手に与えるか」を競い、生徒はお客様のように扱われ、教育自体がサービス業のようになりました。

これ自体をすべて否定するつもりはありませんが、デジタルを活用することで、学校が担う「生徒が一定量の知を獲得(蓄積)する場所としての役割」のウエイトを下げ、もっと生徒が集団で学び暮らすことで得られる価値や体験のウエイトを上げることができますし、そもそも「生徒が一定量の知を獲得していることの価値」(すなわち「わたし」が知を持ち、その知が「わたしのもの」であることの価値)自体も問い直していくべきなのだとおもいます。教育を「生徒が一定量の知を獲得(蓄積)するためのフィールド」という観点を中心に置いて設計するのではありません。生徒(先生)が生きること暮らすことを中心に置いて設計しながらも、生徒が一定量の知を獲得(蓄積)することが、これから可能になるのだとおもいます。そしてその空間では、生徒・先生(・地域住民)が互いの立場を超えて知を共有しあう体験が生まれるのでしょう。

学校の時間割のなかに探究学習の時間を設置したり、学校のプログラムとして社会のなかに出る体験を置いたり、デジタル化で学校の教科学習を効率的に行うこともどれも素晴らしいことだとおもいますが、そろそろ学校の中をどのように変えていくのかという議論ではなく、生きる暮らすという視点の中で、社会のなかにどう学びを埋め込んでいくのかという議論が出てくるべきだとおもいます。

僕は、小学校で不登校を経験したとき、「自分は他の人があたりまえのようにできることが、できない人間なのだ」という感覚をもちました。しかし、転校先の小学校で素敵な友人に出会い助けられたことで、この感覚は「自分が他の人よりできないことが多いのであれば、他の人に助けてもらいながら生きていけばよいのだ」という新しい感覚に変わりました。中学高校で、たくさんの仲間に支えながらいろいろな挑戦をし、高校を卒業してからは、会社で働く経験をさせていただくことで、自分の能力だけでは絶対見ることのできない景色や、達成することのできない体験をさせていただきました。このことで、自分と他者のあいだの感覚がだんだんと無くなっていき、物理的に異なる他者のことを自分のことのように大切に思ったり、自分のことを他人事のように思ったりする感覚がうまれました。そして、自分のなかにある知を「わたしのもの」として独占したり、そこに価値をつけようとするのではなく、知を共有の財産としてシェアしていくことが、だんだんできるようになりました。

デジタルの発明が文学や絵画世界にもたらしたもののひとつはまさに、作品自体が「わたし(=作者)のもの」であることによる価値が変わったことだとおもいます。その背景には、そもそも世の中のあらゆるものを「わたしのもの」「あなたのもの」と線引きすること自体への疑問があります。では、教育のデジタル化の先に、どのような未来像があるでしょうか。知を「わたしのもの」「あなたのもの」と線引きするのではなく、知を共有財として捉えていく。その前提にたったときに、学校はどのような姿であるべきなのでしょうか。これは、業務効率化や知のインプットの効率化のためのdXを進めていくのとは異なるベクトルの考え方だとおもっています。

僕が教育の世界にこれだけ惹きつけられるのは、僕が学校に対して違和感を感じているのに加え、違和感を感じている自分もまた学校のシステムの中で恩恵をうけて育ったからなのだとおもいます。このパラドックスを紐解いていくのに大変な時間と労力がかかっておりますが、紐解いた先に自分がこれから社会のために貢献できることが見つかるとおもうし、もしかしたらその中にこれからの学校と社会のあり方を考える大切なヒントがあるのかもしれないと、信じています。

世の中のあらゆるものに対して、「わたしのもの」「あなたのもの」と線引をして区別・分類して捉えるのではなく、「わたしたちのもの」として捉え、お互いに共有しあいながら暮らす社会がいいなとおもいます。そこにはきっと、人と人とが出会うこと協働することの喜びがあるのだとおもいます。そうした社会をつくるお手伝いを、微力ながらできればよいなとおもって、ニューヨークに修行しに来たのだということを、大学の課題が思い出させてくれました。

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