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キャラクターによって、ストーリーが変わる

最近、私の周辺で起きた待ち合わせのしかた について。

私は日にちが決まれば、あとは前日に待ち合わせを決めるパターンが心地よい。
それか数日前にだいたい何時くらいというメドがあれば、それぞれがそのメドに合わせて、それぞれの都合を合わせてくるような感じとか。

例えば〇月〇日と日にちが決まっていて、
私としては「その日はデパートで買い物しているから、周辺に着いたら連絡してもらって待ち合わせ場所をきめよう!」と伝えたとして。
ランチの約束をしているのだが、レストランはデパート付近にある。

Aさんは、だいたい〇時くらいに〇〇駅に着くようにするね
と、デパート最寄り駅に○○時という、お互いにメドが立つような返事が来る。

Bさんは、結局何時に〇〇駅でいいの?
と返事が来る。

勝手ながら私には、Aさんには話が通じてるという解釈が起き、Bさんには伝えたことが全く通じていないというジレンマが起きた。

Aさんは、はっきり決まっていようといまいとわりと自由。
Bさんは、きっちりと時間と場所が決まっていないと戸惑うのだろう。

ここで問題が起きるのは、私とBさんだけでAさんはあまり問題にならないだろう。
Bさんと私は、お互いの待ち合わせの感覚にズレがあるから、相手の感覚が理解しがたいというか、謎が残るというか。

それぞれのキャラクターで、ストーリーは全く違う。
別にどこで待ち合わせようと、正解はない。
脳内ストーリーが各々の脳の中で繰り広げられているだけで。

そして、待ち合わせだけを見ると、Bさんがきっちりと明確さを求めているように映るけれど、Bさんは自分の意見や意思を回りに伝えないタイプ。
私は待ち合わせはぼんやりでいいけれど、思うことは伝えたいタイプでもある。

人は二面性を必ず持つ。
キャラクターどちらかの良し悪しではないし、正解もない。
同じシチュエーションでもキャラクターによってストーリーが変わる。
キャラクターによっては良いストーリーにも、その逆にもなる。

起こることに意味はないということ。
意味付けをしているのはキャラクター。
良し悪しも意味もない。
これはすべてにおいてそう。
キャラクターが意味をつけているだけ。

ベースには何も起きていない。
待ち合わせ場所にもデパートにも何も起きていない。

そしてキャラクターも架空であり、映画を見た時の主人公のようなもの。
主人公を演じる俳優は、その役名とはまったく違うにも関わらず、映画内では主人公としてストーリーが繰り広げられている。

「私」とは体に被せた着ぐるみみたいなもの=自我
着ぐるみを脱いだら、赤ちゃんが成長した姿の人間がいるだけ。
自我は本当の「私」でもない。
着ぐるみを着たことによって、それが人間の姿に張り付き、
あたかもそれがすべて「私」であるように感じているだけ。

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