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ろくでなし

「どこに向かっているのですか」
 声をかけられた時、この世なのかあの世なのか、私はもう認識が出来ないほど憔悴しきっていた。ヨレヨレのスーツには泥がつき、革靴は傷だらけだ。
 生きていても仕方がない。迷い込んだ森は、私の死に場所にはちょうどよい。

「少し、休みませんか、お願いします」
 買い物袋から差し出されたペットボトルを受け取ると、私は水を一気に口に流し込む。どれくらい歩いただろう。罪悪感を抱いたのは、潤った喉に一瞬だけホッとした後だった。死にたいと思っていた私は、どうやらまだ、どこかで生きたいようだ。思わず笑みを浮かべた。

「どうして笑うのですか」
 水を最後まで飲み干した後、彼女の問いかけに首を横に振った。

 借金は200万。年収1000万近くあった私は、たかだが200万で命を落とそうとしている。知り合いや友人は、とうの昔に縁を切られた。美味しいビジネスがあると、いい思いをさせてやった奴らも、金がなくなった途端、音信不通になった。人なんてそんなものだ。高いビルから見下ろしていた世界は、あっという間に夢の国になった。

 どこかに雲隠れする気力ももうない。絶望したのは、借金の額か。いや、違う。絶望したのは、人間という生き物だ。

「ろくでなし」
 息子に散々かけてきた言葉だ。
「今じゃお父さんに言ってやるよ」
 あいつの軽蔑したような目は、多分、私に似てきたのかもしれない。息子に返す言葉もなかった。

 手には、ロープがある。300円のロープと600円のロープ。私は、ホームセンターで迷わず300円のロープを掴んだ。今から死ぬというのに、財布に入った1,200円すら使い切ることができない。私は、そんな人間なのだ。

 どこで間違ったのか。優秀な銀行員として生きていくはずの未来が崩れた。

「前崎さんは、私の息子みたいなもの」
 裕福そうな老婆は、私の手を握って微笑んだ。金を騙し取るなんて、簡単なものだ。
 初めて人の金に手をつけたのは、小学生の時だ。口うるさい父の財布から金を盗んだ。誕生日プレゼントすらくれない父の変わりに、母へ指輪を送った。何も知らない父を見る度に、感じた高揚感は忘れられない。
 あの時と同じだ。何事もなかったように、いつものように仕事をこなし、生活をする。真面目に生きてきた自分へのご褒美だ。

「横領よ!こんなことしちゃだめ」
 1年たった頃、老婆は、私を涙ながらに諭した。私の良心は痛まない。その時には、この金がないと、私の借金は返せないところまできていた。後少しで儲けが出るのに、気付いた老婆のせいで私の人生は終わる。

「きっとあなたと私は同じ場所に向かうのですね」
 森の中を歩きだすと震える彼女は、そう言った。私は、彼女にありのままを語ることにした。どうせ誰も覚えてはいない人生だ。死ぬなら一人よりも二人がいい。彼女は震えながら黙って私の話を聞いた。

 最後に遺書を書こう。懺悔するつもりもない。生きていた証を残したい、そんなちっぽけなプライドだ。

「え?」
 スマホのメッセージに、私は目を見開く。

ーどこにいるのですか。
上村のおばあちゃん、階段から足を滑らせなくなったとのこと。お手伝いの女を警察が追っているようです。すぐに社に戻ってください。

 老婆が死んだ。私はまだ、ツイている。あの時、背中を押したのは私だ。ロープを手に、頭を下げれば老婆は、きっと黙ってくれるだろう、そう思っていた。

「ろくでなし」

 老婆の冷めた目に、私は怒りをおぼえた。母と同じ言葉は聞きたくない。ただ、子どもの時のように駄々をこねただけだ。違ったのは、大人になった私の力は、軽く老婆を突き飛ばしてしまった。

 何分くらいたっただろうか、買い物から帰ってきた手伝いの女は、倒れた老婆と私を見て、すぐに察したような表情をした。逃げ惑う彼女を、この森まで追いつめ、私は自分の死に場所を探していた。そうか、彼女も金を横領していたのか。
 財布にも600円が残っている。森の入り口にはバス停もあったはずだ。

 逃げ惑う彼女の首にロープをかける。悶え苦しむ彼女は、あの時の父や母、息子と同じように、まだ生きたいようだった。

 森の陽が、私を照らす。
 私はこうやって生きていく。
 ろくでなしなんかじゃない。

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