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自己満足だけの表現

最近、仕事として文章を書くことや、写真を撮る機会が増えた。ただ自分が吐き出したいときのそれとは違って、表現の先には誰かがいる。キリトリ方にはフォーマットなるものがあって、その中で自分を探している。もしくは主観を消して、ただ文字を綴る道具のような事実重視の思考に寄せる。

とは言え、よく考えてみれば日常の中でも何かの先には誰かがいることがほとんどで、ただ自分の純粋な気持ちから生まれる行為とはありうるのかとも思う。そもそも文字なんて、記録写真なんて、私たちの生活圏が広まりすぎたが故に使わざるを得なくなってしまったのではないか。だとしたらもっと小さく長くゆっくり、好き勝手で無意味な表現があってもいいのではないかと。そんなことを考えながらも今日もインスタを投稿する私に、誰のものでもない表現は可能なのだろうか。


・素材としての匿名性

例えば壁の落書き。SNSの書き込み。フリー素材。

作者不明の作品は想像以上に身の回りにあふれていることに気づく。誰が書いたのかという関心よりも、その内容で評価され議論をうむ偽名の作品は表現の本質を突く。自分の視点がプラットホームになってまた誰かの表現がうまれていく、その素材はさわやかな方がいい。

ストリートアートとしては、社会問題をさまざまな切り口で都市の壁に描き続けたバンクシーが有名かもしれないが、彼の作品は「風化してしまう」ところがまた面白いと思う。今でこそアートとして認められ、保存の動きやオークションによる転売、複製などがされているが、原作はあくまでも壁。建物は自然環境の中でいつまでも存在し続けるにはいかない。

そもそもいつまでも残るというのは奇妙な話だ。とはいえ異なる環境や時代で共感される作品もあるわけで、その表現が土地とリンクして存在する限りは寿命がある。ただそこで今を生きる人々に宛てた、個に対する見返りを必要としない残らない実体こそ、自然な表現の姿なのかもしれない。


・見せることが前提ではない

ふと、2月に訪れた奄美大島、田中一村記念美術館で触れた、日本画家・田中一村さんの言葉を思い出す。

「見せるためではなく、自分の良心を納得させるためにかく」田中一村

働きながら、展示もせず、ひたすらに自然を描き続けた画家。自分のわがままで表現したいものを表現し続ける姿は、ただ素直にかっこよく私の目に映った。亡くなった後に名が広く知られるようになった彼の作品は美術館に数多く展示されており、観る人を独自の色彩と力強さで魅了する。なぜ見せなかったのか。自分に向けて描くとはどのような感覚なのか。惹かれてしまう根っこにその答えがあるような気がして、自分宛の表現に憧れを持ってしまうのだ。


・反射的に手が動いてしまう、癖のようなもの

ヴィヴィアン・マイヤーという写真家がいる。彼女もまた生前に一切写真を公開せず、地元のオークションでネガが落札されたことで一躍有名となったそうだが、その15万枚以上にもおよぶという写真の数々をみていると、ただ自分の「撮りたい」「面白い」に従った結果としての写真がみえてくるようなのだ。中盤フィルムでバシッととらえた街の日常には作品としてではない、惹かれたものをただまっすぐに撮る姿勢がある。(ネットで調べればたくさん写真がでてくるので見てほしい)

ふと書きたい衝動に駆られる深夜、外を歩いていてついシャッターを押してしまう瞬間、日常のなかの一瞬、表現なんていう言葉ではくみ取れない、反射的な理由のない行為が実は日々の中に散らばっているのではないか。あとから見返して整理をして意味をつけて、共有する。必ずしも編集の作業がなくてもいい。もっと素直に、癖のようにできたら。


・誰のものでもない表現って?

日常に抗うようにこれまで自分宛て、もしくは見返りを自分に求めない表現を見てきたが、誰とも関係を持たない表現はやはり不可能なのではないかという今のところの解釈に至った。何かの影響を受けなければそれを形にしたい感覚は生まれないのではないかと思うし、やはり誰かや何かと自分の思考との境で生まれる行為なのだと。しかしもっと単純な、感情に直結した自分勝手な自分のための表現があってもいい。無理に意味付けをしなくても誰かに自由に届いて、あわよくば利用されればいい。

現代は遠くにいても、表現が届く、共有をすることができる時代である。アナログをデータ化する技術は、その「誰か・何か」の幅を増大させた。そんな今だからこそ、自己満足のための、フリーな表現のかたちを考えてみても面白い。

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