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【余り時間のひとりごと】新小岩駅でのバス待ち、本の匂いのする本屋さん

「小説家とか向いているかもしれないね」

まだ転校してすぐ、小学3年生のいつかの学期末、成績表を渡しながら先生が言った言葉をふと思い出しながら慣れないバス停でバスを待つ。

慣れないバス停はソワソワする。そのバス停を利用する人々によって作り上げられた無言のルールのようなものを感じるし、本当にここに居てバスは来るのだろうかという不安が付き纏うからだ。

久しぶりの新小岩駅。

駅が綺麗になってからこちら側に降りるのは初めてで、バスが来るまでの20分間をどうしようかと思いながら駅前を180°見回す。風船を片手に子供向けの雑誌を読む少女。カーブのついたベンチでお喋りをする夫婦、階段の日陰でタバコを吸うおじさん。本屋さんの暖簾は朱色のゴシック体で「本」と書かれた現代的なデザインが施されていたが、2階に目を送ると今にも色が消えてしまいそうな「喫茶ルノアール」、そして古びた窓がある。きっと開発を横目に眺めながら長く愛され続けるビルなのだろう。

本屋の選書をみれば、そのまちにどんな人々が暮らしているのかなんとなく見えてくる。

気に入った私は駅前の本屋へ足を進めた。

店の外には定期的に刊行される漫画や子供向けの雑誌が目立った。風船の少女はお母さんに呼ばれ、本を閉じて走っていった。暖簾をくぐる瞬間の緊張感、ふわっとあの昔ながらの本屋の匂い。これだ。これが本物の本屋だ。すぐに目がつくところには自己啓発本や最新の小説などが並ぶ。やはり働き世代は多いのだなと想像する。日がさす壁際にはギッシリと子供向けの本が並んでおり、3人ほどの子供たちが各々図鑑だとか小説などの本を眺めていた。きっとお母さんたちは雑誌を立ち読みしているのだろう。私は小説コーナーを歩く。ふと目に入る「紀行・エッセイ」の紙札、そこにはいろいろな地域の文字と、食や音楽に絡めたそそるタイトル、ディープなまちのルポなどがさまざまあり、どれも私の興味を誘った。

本屋に行くと自分の興味の輪郭がはっきりしていく感覚があるが、まさにその輪郭を濃く縁取るような本棚にこの小さな店内で出会えたのは奇跡的体験だった。

中でも気になったのは「居酒屋道楽」というエッセイ調のもので、中にはその居酒屋にありつくまでの筆者の経緯、注文シーン、自然で詳細な食レポ、そしてその場で繰り広げられる会話などが描かれていふ。帯には「そこで出会った人や街に想いを馳せるエッセイ」のような副題がつけられていた。

そうだ、それがやりたい。

最近は日常の中の「ひとりごと」がダダ漏れしているように造られている文章や映像、ラジオなどが好きで、究極の表現ではないかと思ったりしている。「孤独のグルメ」や北欧暮らしの道具店の「ひとりごとエプロン」などはもう本当に最高だ。

昔からひとり遊びをしていた癖をひきづっているのか、今でも「ひとり外食」「ひとり散歩」が落ち着いてしまう私にはそういったものがよけいに、新鮮で程よくひんやりとした湧き水のように身体に染みてきたのだと思う。

私たちは日常の一部でいろいろなことを考えるし、その思いがその時の経験やモノと結びつくことでいつかこれを想起するときに立体的に感情が現れる。まちへの愛着はそれの積み重ねでつくられていく。

頭の中で繰り広げられる「ひとりごと」を可視化をしてみたくなった。

自覚させてくれたこの本、ここでの価値観との出会い。しかし現金がギリギリ間に合わなかった私は購入を諦めて外に出た。バス停は思ったより遠くて焦ったけれどバスは案の定すこし遅れて到着した。

あのときなぜ先生は「小説家」を私に勧めたのだろう。人はなぜ綴るのだろう。今、父と一緒に祖父の生きた奇跡を本に綴る計画を立てている。本を書くことはまた自分の存在を残すことでもある。文章は自分よりもきっと長く生きていく。私もひんやりと誰かの心に沁みる湧き水のような文章が書けたらな。



そんなこんなで吐き出してみた、余り時間の私のひとりごとでした。気が向いたら続きがあるかも。

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