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撮ることを、やめたくなる時

はじめてのnoteだというのに暗すぎるタイトルをつけてしまった。中身はすこぶる元気な写真好きの大学生です。(もはや先日FUJIFILMのxpro3が仲間入りしてここ数日かなりテンションが高い)

なぜ私は写真を撮るのか
そもそもこの瞬間を残したいという感情って何

そんな疑問が浮かんでは消えていく。本格的なカメラを手にして、明日で4年が経つらしいが、いつまで経っても答えは曖昧で、きっとまたすぐ立ち止まって考えてしまう。多分ただの考えすぎだけれど、でも当たり前に撮っている時には見えない写真の奥深さみたいなものがある気がして、そんな今日は "写真を撮りたくないと思った時間" を思い出しながらなぜ私は写真を撮り続けているのかを考えたくなった。

振り返ってみれば、これまで何度かシャッターが押せなかった経験がある。高校で写真部に入った私、旅行先での私、ファインダーをのぞいて表現しきれないと感じた私。まずはその3つに分けて話していこうと思う。

①「これ、ほんとに自分が撮りたい画?」
高校に入るまでは趣味の一環でしかなかった写真が、写真部に入ったことで周りを意識したものと変わっていった。コンテストの入賞作品を観てはどんな写真がウケるのかが勝手に身について、作品を外に出して評価をもらうたびに「良い写真」がどのようなものかなんとなく分かっていった。それがいつのまにか染みついていたことに気づいた時、私は写真を撮りたくなくなった。シャッターを切るという衝動が、真に自己表現でのものか、もしくは計算の上での結果なのかという違和感がつきまとっていた。それでも撮り続けたのは、どの写真にも変わらない自分っぽさが、時間が経ってから見えてきたからかもしれない。

②「同情しているわけではない」
西アフリカのセネガルへ行った時。街は新鮮なもので溢れているのになぜか撮った枚数はとても少なかった。それはどこかで彼らと自分の間にある境界線を意識していたからかもしれないと今は思う。夜の踊りだとかカラフルな布屋さん、分かりやすくて華やかな文化は沢山撮った。でも日常の中の美しさを撮る勇気がなかった。労働している子供達とか、こっちを見ている露天商。強くて淡い目に惹かれていった。可哀想と思っているわけではない、記録として撮るわけではない、でも私は美しいと思っても周りはどう感じるのだろう。この気持ちが本人に伝わるのか。そんなことが頭をよぎってシャッターを押せない自分がいた。よそ者が、その土地の日常を撮ることで感じる疎外感。いっそ観光客になって仕舞えばどれだけ楽か。ジャーナリストと割り切ればどれだけ。どこへ行っても中途半端なよそ者の私は、違う文化圏での普通を特別なものとして見て、それを魅力的に写したいという衝動に駆られるも、勝手にそれをデリケートと認識してしまった時、撮る行為を躊躇してしまう。そしてもはや地元の人に溶け込みたいとまで思ってしまった時、そのはかない美しさを形として残すことをやめ、気づかなかったフリをした。

③「無力感」
太陽が山のシルエットに落ちる瞬間、花火のフィナーレ、揺れる木漏れ日、淹れたての緑茶…。感動してカメラを構えて、ふと感じる無力感。表現しきれない!伝わらない!!という感情に手が留まってしまう。その場の空気感とか音とか匂いとか、感動の背景にあるものはきっと景色だけではないのだと実感する。今の自分にはこの感動を写真に表しきれないというあの無力感は、案外悪くなかったりもする。ただ断片的なものの集まりとしてでもそれを表現することができたら、もっと写真の幅が広がるのだろうと思う。

つらつら。結局ああだこうだ言っても私は写真を撮り続ける。ぼやけて曖昧でよくわからないけど引っかかって離れないような景色とか気持ちをちょっとづつでも表現できたら良い。noteにはその時々のまとまらない考えをつらつら記録していきたい。初めは自己紹介をするものかもしれないし、どんなコンセプトで書いていくかを言うものなのかもしれないけど、きっと記録していくうちに見えるはず。

海へ行きたいな。今日はここら辺で。

#写真 #なぜ写真を撮るのか #残すこと #はじめてのnote #社会学 #カメラ


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