『あらし』(テンペスト)ウィリアム・シェイクスピア 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
野心溢れる実弟アントーニオーとナポリ王アロンゾーの陰謀により国外へ娘と共に追放された元大公プロスペローは、漂い流れ着いた孤島にて恨み辛みを抱きながら、それでも大切な我が子を生かそうと懸命に育てました。追放の際に忠実で親切な臣下ゴンザーローから手渡された僅かな生活必需品と大切な魔法の研究書を手に、十二年間も生きながらえます。その間、島に住んでいた魔女の子供キャリバンに言葉や知恵を与えて服従させて、魔法の力を手に入れます。その力を用いて、魔女の魔法に掛かった万能妖精エーリアルの窮地を救って従え、二人の身の回りの世話を行わせていました。そして、二人を国外追放へと導いた当事者たちを乗せた船が航海しているとき、エーリアルに指示を出しながらプロスペローは大嵐(テンペスト)を起こします。風雨によって荒れた海原は航路を見失わせ、とうとうプロスペローの滞在する孤島へと漂着させます。このように彼らを誘き寄せたプロスペローは、十二年前の復讐を果たそうと、エーリアル、キャリバンを動かして挑みかかります。
本作で取り上げられる一つの大きな主題が「赦し」であると言えます。復習に燃え、恐怖と試練を与えながらプロスペローの心境が変化していきます。アロンゾーの怯える哀れな姿、子ファーディナンドを求め苦しむ姿は、彼の心と重なって情けの思いが芽生えていきます。しかし、ここに単的な「悔いと赦し」の法則性は見られません。簒奪者である実弟アントーニオーに懺悔の念や謝罪が全く無い中でも、プロスペローはその者たちまでも全ての行いを赦そうと心に示します。つまり、悔い改めない者までも赦すという行為こそが「本質的な赦す」ということであると訴えています。
大団円に見えるこの物語ですが、常に違和感が付き従います。それは当時のイギリスによる植民地支配が垣間見える価値観が起因しています。
「化物」「魚」「片端者」「悪魔の片割れ」など、酷い呼び方で扱い続ける孤島の原住民キャリバンへの描写は、当時の植民地支配におけるイギリス人の態度が窺えます。そして、懲らしめを受ける今回の漂流者たちだけではなく、プロスペロー自身さえ、この価値観を持って行動をしています。前述のような悔いぬ者さえ赦す「善の人」とも言える人間さえもが、原住民差別、他種族差別を自覚なく行い、土地を含めて支配しているという状況は、当時の植民地支配による価値観を裏付けていると言えます。
こういった価値観を持っている観衆へ向けた劇の終幕は、プロスペローが漂流者たちと共に孤島を引き上げていくことで締め括られます。同時的に宣言されるエーリアルの解放、そして結果的な原住民キャリバンにとっての解放が、物語の背面的に描かれています。シェイクスピアは最後にプロスペローが観衆へ向けたかたちで、価値観を覆す必要性があるという訴えをエピローグで実現しています。
魔法の力を手放す、支配する力を手放すという行為は、植民地を支配するという行為の放棄を世に伝えているように受け止められます。そしてプロスペローが求める喝采こそ、観客への思想の賛同を求めると同時に、観客がかけられている呪い(価値観)から解放するようにと訴えかけています。そして犯した現地人に対する植民地支配や蔑視の罪を、神の慈悲に縋り「赦し」を得ようと締め括られています。
本作『あらし』は種本が無いことが一つの特徴です。そしてそれは、シェイクスピアの思想で出来上がったものとも言えます。
個人の尊重、文化の尊重、違いの理解、現代でも掲げられ続けている問題を改めて見直す良い機会となる作品です。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。
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