『阿Q正伝』魯迅 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
1876年に日本は、国力と資本を拡大させるために朝鮮王朝へ軍事圧力を与え、強制的に不平等条約(江華条約)を締結しました。朝鮮は米穀を中心とした作物の輸出や、無関税での貿易を強いられます。朝鮮王朝内では宗主国である清国の意向を支持する保守派と、そこから脱却して日本のように国力を伸ばすべきであるという改革派の対立が生まれます。日本資本を中心とした貿易は物価の高騰を呼び、民衆にも各勢力の派閥感情が芽生えていきました。1889年に凶作が続いて穀物の収穫が困難になると、王朝は防穀令を発布して日本への輸出を禁止します。これにより日本は紛争によって抗議をして民衆間の派閥意識はより濃いものとなっていきます。国民に広がった派閥対抗意識は、反キリスト教団によって脱清国を掲げる反乱が起こるに至ります。自らで鎮圧させることが困難になった王朝は清国へ出兵を請願すると、日本も対抗するように出兵しました。一旦は講和して撤兵するも、開戦理由を待ち望んでいた日本は、1894年に布告なく戦艦を撃沈させて日清戦争が始まりました。平壌での陸兵戦、黄海での海戦、それぞれで圧倒した日本軍は保守派農民による反乱も駆逐して、清国の降伏を受け入れました。そして1895年の講和会議で締結された下関条約によって、巨額の賠償金や台湾の植民地化を得ることになりました。
帝国主義が広がる世界情勢のなかで「眠れる獅子」と称されて沈黙していた清国が日本に敗戦したことで、列強国に衝撃が走りました。清国は巨額の賠償金を工面するために外債を発行して資金を借り(借款)、国土を分断されるように半植民地化されていきます。日本が確保した福建省と台湾をはじめ、ドイツは膠州湾、イギリスは九龍半島と威海衛、ロシアは旅順と大連をそれぞれ実質的に分割支配しました(瓜分の危機)。軍港や貿易港と鉄道を差し押さえられることで、清国は状況を打開することが困難になっていきます。やがて帝国主義の圧倒的な勢いを受けて、清国も西洋技術を取り入れる必要があるとする洋務運動が活発化します。そして日本の近代化(明治維新)を倣うように立憲君主政治を取り入れて、議会によって国民の声を反映する仕組みを目指しました。康有為を筆頭とする改革派官僚たちが起こしたこの運動は、祖宗から守り通した清国政治の在り方である「成法」に対して「変法」と称し、この運動を「変法運動」と呼びました。1898年に清国第十一代皇帝である光緒帝は、この新政治理念の基本を述べた詔勅を発表して、本格的に改革が開始されました。重きを置かれた変更点は「科挙」の撤廃でした。清国成法にて重要視されていた官吏登用制度である科挙は、儒教の学識、またはそれらを礎とした詩作などを求める実力試験です。これは儒教を中心においた封建政治の仕組みを根本から覆す変化でした。清国政府は詔勅を受けて変法へと移行しようと動き始めましたが、当時の摂政として紫禁城に君臨していた保守派の西太后が断固反対を掲げ、即座に頓挫させられました。
依然、清国における変革が具体化しないなか、帝国主義の列強国による支配で民衆は不満を強く募らせていきます。この感情は、痺れを切らすように民衆たちへ少しずつ過激な思想を支持するように変化をさせていきます。そして、彼等を扇動するように行動を起こした組織がありました。排外主義の反キリスト教団「義和団」が武装蜂起します。列強国による支配は悪魔的であり、清国の歴史を否定する邪悪なものだと喧伝する仇教運動を激しくし、外国公使たちへ暴力を振るいました。始めは西太后は鎮圧の指示を出していましたが、彼女自身も反列強国への意識を高めて支持するようになり、ついに1900年に各列強国へ宣戦布告することになりました。布告を受けた日本、ドイツ、イギリス、ロシア、フランス、アメリカ、オーストリア=ハンガリー、イタリアは八カ国連合軍を組織して対抗し、清国と連合国による北清事変が勃発します。大きな戦力差が影響して西太后が率いる清国政府は講和に応じて北京議定書の締結で、またもや多額の賠償金を支払うことになり、各列強国軍の駐屯を認めることになりました。これにより世界情勢はさらなる帝国主義の世界分割競争へと加速していきます。
度重なる帝国主義による攻勢を受けて、清国政府内では本格的に立憲君主政治へと変化させて清国の近代化を目指すべきであると痛感します。光緒帝と西太后は西洋近代化を掲げる「光緒新政」という改革を始めました。軍の近代組織化、学制の公布を伴う教育改革、そして科挙の廃止を定めます。ここにようやく「変法運動」の目的が成り、一定の近代化が見えました。科挙が支えていた政府官僚の地盤を補うために、列強国への派遣、とくに日本への留学に力を注ぎ、新たな才を持った官僚を育成していきます。しかし、清国における財政難は解消されず、本格的な近代化を円滑に進めることはできませんでした。そこで、財源を確保する目的で政府は1911年に、日本、イギリス、フランス、ドイツ、アメリカへ更なる借款を得て鉄道の国有化を図ります。これに対して鉄道会社を中心に民衆は激怒して暴動を起こします(四川暴動)。その運動は反列強国の意識へと伝播して、武昌にて政府軍の反乱をも誘発させます。大々的に清国政府打倒を掲げ、湖南、陝西、上海と次々に中枢地を占拠して共和制国家の樹立宣言を行いました。こうして辛亥革命が始まります。
1894年の日清戦争時から清国の革命を唱え続けていた孫文は、変法運動などで変革が進められていたあいだ、華僑として成功を収めていた親族の助力を受けて、諸外国にて清国の革命を説き続けていました。清国政府による彼への弾圧は長い亡命生活を余儀なくされましたが、海外で同士を募り、人望と信頼を得て組織を作り上げていきます。清国で「光緒新政」が成ると、これらの組織を収束して清国を革命する政党形成を目指し、1905年に東京で「三民主義」(民族主義・民権主義・民生主義)を掲げた中国同盟会を結成しました。清国で四川暴動が起こると、直ちに帰国して革命の指導者として先導を引き受けました。革命軍が占拠した各省の代表たちは革命の速度を上げていきます。そして1912年、ついに南京にて中華民国が成立して、臨時大総統の孫文が誕生しました。北京に残された袁世凱を中心とする清国政府は皇帝を退位させて、ついに清国は滅亡し、二千年以上続けられた専制政治は終わりを迎えました。
しかし、南京の中華民国は中国全土を統べる実権を持つことはできておらず、未だに北京の袁世凱が強い力を保っていました。共和政国家を目指す中華民国は政府として機能させるために中国同盟会を基盤とした国民党を結成して、憲法や議会を整えていきます。初の国民選挙を行い、国民党が正式に議会政治を進めようとしたさなか、袁世凱は自身の独裁権力を守るために、国民党筆頭の宋教仁を暗殺して国民党を解散させました。これに中華民国の中心人物のひとりで宋教仁の盟友である黄興は北京へと挙兵して、袁世凱を打倒しようと打ち振います。これを迎え撃つ北京側は独裁による統制と武力がものを言い、黄興らは弾圧され、孫文は日本へと亡命することになりました。南京での実権をも得た袁世凱は革命政府が構築した憲法や議会を全て撤廃し、拡大した中華民国大総統として君臨します。
1913年、孫文は亡命先の東京で国民党の要人たちを集めて秘密裏に革命組織を再形成していきます。中華革命党と名付けられたこの組織で国の外部から袁世凱の独裁政治を崩そうと、新たな革命の準備を始めていました。翌年、帝国主義列強国同士の紛争が次々と連鎖して、全世界を巻き込む第一次世界大戦争が勃発します。袁世凱は中立を表明しましたが、協商国側の日本はこの混迷と情勢を利用して権益を拡大しようと中華民国へと近付きます。日清戦争での賠償金を支払うためにドイツに借款して押さえられた膠州湾をはじめ、ドイツ権益をそのまま日本へ継承するように二十一ヵ条の要求を袁世凱へ詰め寄るように突き付けて受け入れさせました。しかし、これによって民衆の怒りを買い、独裁を貫いていた政治体制にも軋轢を生じていました。中立であるが故に同盟国と協商国ともに借款を元に要望し、民衆は反発運動を起こして革命を望み、独裁政治の体制さえ揺らぎ始めている。袁世凱にしてみれば四面楚歌に成りつつある状況を打開しようと、自身が皇帝となり専制政治を復活しようと目論みます。そして事態を終息させるべく強引に帝政宣言を発しました。しかし、全方位から反対を受け、民衆が蜂起し、袁世凱は失意の末に生涯を終えました。その後、中華民国は軍閥が政治を握りますが混迷を極めます。流されるように第一次世界大戦争へと参加して協商国側に付くものの、同盟国側との軋轢を残すだけの結果となり、世界における立場は一層に苦しい状況へと追いやられます。大戦を終えてパリ講和に至るとドイツを中心に同盟国側へ多額の賠償金の支払いがくだされ、借款の返還が取り決められました。しかし、日本へ継承した中華民国内のドイツ権益は、日本が協商国であるという主張のもとで返還されず、民衆の不満は募ります。この件で五・四運動という北京大学学生たちが起こしたデモ活動によって中華民国民衆の主権回復意識が高まったことを契機に、孫文は今度こそ公に民衆政党「中国国民党」を結成しました。この長い時間をかけた辛亥革命は、より大きな意味合いを持つ中国統一を目指す国民革命へと流れを任せていきます。
魯迅(1881-1936)は中国の民衆が苦しみ抜いた時代を並走するように生きました。十八歳のときに南京の江南水師学堂赴へ入塾しました。科挙官僚であり文人であった父のもとで裕福な幼少期を過ごしましたが、父の死によって家柄は没落したため、魯迅は国費で学を得る必要があり、洋務運動の一連で建てられたこの塾へ通うことになります。近代化の進む西洋の思想、哲学、学制、法律、啓蒙、文化、科学といった、あらゆる進歩に価値観を揺さぶる程の影響を受けます。日本の奇襲から始まった日清戦争では、清国は体勢を立て直す間もなく敗戦し、西洋近代化だけでなく日本の声も聞かなければならない国政となりました。魯迅もまたこれに及ぼされ、二十二歳のときに国費留学生として日本に渡ります。専攻は医学でしたが、文学にも熱心で、特にロシアのリアリズム文学創始者ニコライ・ゴーゴリやロシア第一革命の苦悩を描いたレオニード・アンドレーエフなどのロシア文学に傾倒します。仙台医学専門学校に留学生として入学すると、学校側も無試験無学費の厚遇で受け入れました。しかし魯迅を待っていたものは、日露戦争や日清戦争における祖国の酷い扱いが当然の如くに認識された肩身の狭い世界でした。彼が目にした写真のひとつに、ロシアのスパイと見做された中国人が拘束されて打ち首に合う間際というものがありました。この屈辱的な光景を囲む祖国の野次馬には好奇の表情しか見られず、彼は民衆の愚弱性と愚昧さに強い失望を感じ取りました。このとき、魯迅は作家となる決意をします。国を支えるべき民衆の精神改革こそが国の革命に必要な力であり、その精神を改造するものこそが文芸であると確信しました。
帰国後は中学教師として教鞭を執っていましたが、しばらくすると1912年に南京で中華民国が成立します。国の教育事務官として北京へと移りますが、そこで目の当たりにした袁世凱の軍閥独裁に強い失望感を抱きます。一方で、古文から白話(話し言葉)へと文学の在り方を変えようとする文学革命が隆盛し始め、日本へともに留学していた銭玄同が雑誌「新青年」を出版します。ここへの寄稿を依頼され、本書にも収められている『狂人日記』を発表しました。これは中国文学において初めての口語文学であり、民衆の精神改造が目的であるからこその口語体表現でもありました。そして二千年以上も保ってきた専制政治の根源的思想である儒教を根本的に否定し、またそれによって育った自身さえも否定して、だからこそ後の世を変化させるために民衆意識が変わらねばならないのだ、という思想が込められています。本作『阿Q正伝』では、民衆の愚弱性、皮相浅薄、無知蒙昧を凝縮した人物「阿Q」を生み出します。この暗愚魯鈍の右に左に主義思想なくうろつき周り、恥も外聞も二の次にして起こす行動は、富を得られれば何でも良いという考えが見え透いてきます。ここに辛亥革命が起こるも、孫文らが掲げた立派な「反列強国」「清国打倒」の想いは阿Qには全く届きません。押し入って金目の物を掠め取ることはできないか、という卑劣な考えのみが過ぎります。
本作は国民性を諷刺した作品であると言えます。しかし、魯迅が根本で否定している対象が儒教であるように、本作ではこのような国民性を育てた儒教による封建社会こそが悪であると告発しています。儒教を重んじるが故に科挙に縛られた価値観が根付き、人間としての善悪さえ見誤る社会で、健全な国民性が育まれるはずがないという現在の失望と、後世への希望が説かれています。だからこそ魯迅は、同じ東京で活動していた孫文の組織とも距離を置き、辛亥革命にはただ傍観者として佇んでやり過ごし、袁世凱の独裁と列強国の支配に失望し、それらよりも目先の損得に踊らされる国民に寂寞の眼差しを向けていました。
中国におけるリアリズム文学の創始者となった魯迅は、文学革命の強い流れに後押しされ、第一線の文学者となりました。しかし、彼は教職にもつかぬまま小説家の道を途絶えさせ、思想家へと転換して数多くの世情雑文を生み出していきました。彼が真に願う国民性の改造を直接的に行おうと、様々な政治論争や思想論争を繰り広げて世に啓蒙を図りました。そして、ただひとりの急進的変革者として活動を続けて、その後に生涯を閉じました。
作品自体は口語体の中篇ですので読みやすく、風刺も理解しやすくなっています。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。
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