『優雅な獲物』ポール・ボウルズ 感想
こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。
ポール・ボウルズ(1910-1999)はニューヨークにて歯科医の一人息子として生まれました。父親からの愛情は貧しく、虐待とも言える冷酷な仕打ちを母とともに受けていました。自身の存在を望まれていないと理解しながら過ごす幼少期は、早期から読み始めた文学が救いとなって彼の心を支えます。三歳から漢詩を読み始めるなど、文芸の才が早くに芽生えると、ナサニエル・ホーソーンやエドガー・アラン・ポオなどに影響を受け、自身でも作品を創り上げていきます。1928年の十七歳のときには、シュルレアリストを取り上げたフランス新文芸誌「トランジション」に詩が掲載されるなど、徐々に活動を具体化していきました。バージニア大学へ入ると、T・S・エリオットの作品に影響を受けて音楽への興味が強まり、プロコフィエフやグレゴリオ聖歌などにのめり込み、本格的に作曲活動を目指します。後にポピュリズムの開拓者として知られる作曲家アーロン・コープランドと友情以上の関係を持つと、二人は芸術の才を開花させるために芸術熱狂のなかにあったパリへと旅立ちます。真っ先に訪れたのはガートルード・スタインでした。当時のパリにおいて屈指の芸術サロンを開いていた彼女のもとには、キュビズムの始祖パブロ・ピカソ、アーネスト・ヘミングウェイやF・スコット・フィッツジェラルドといったロストジェネレーション、詩のモダニズム運動における中心人物エズラ・パウンドなどらが集っていました。ボウルズは彼女に詩篇を酷評されるも助言によって信頼を持ち、才能を磨く機会を得ることができました。そして彼等二人はモロッコのタンジール(タンジェ)へ訪れることを勧められます。
アフリカの最北にあるタンジールは、ジブラルタル海峡を挟んでスペインのタリファからフェリーで一時間半という距離にあります。また、ジブラルタル海峡は東西に大西洋と地中海を分つものでアフリカの入り口としてタンジールは知られています。1830年にフランスによるアフリカ侵攻が始まりましたが、普仏戦争とその後の第三共和政によって衰えた勢力を突くように、イギリスやイタリア、そしてドイツなどが参入して植民地競争を激化させていきました。フランスとドイツがモロッコの争奪で対立したタンジール事件(第一次モロッコ事件)では、機会均等や平等を国際会議で取り決められましたが、フランスによる実質的な支配は変わりませんでした。業を煮やしたドイツのヴィルヘルム二世は軍艦を派遣してフランスを挑発しますが(アガディール事件)、ドイツは再びの国際会議でコンゴを掌握すると、結果的にモロッコにおけるフランス優位を認めました。これによりモロッコは1912年にフランスによって保護国化されます。列強国による帝国主義的侵攻によって分割された影響の名残でモロッコ北方一部はスペインによって支配されていました。これが1936年に勃発したスペイン内戦の影響を受けて、モロッコ人たちは出兵させられます。そのまま波及した第二次世界大戦争では立地的な軍事的要所として考えられ、イギリス軍、アメリカ軍、ドイツ軍、ヴィシー・フランス軍が入り乱れ、激しい戦闘が行われました。
戦時中の1943年にフランス保護国からの独立を目指す運動「イスティクラル」が発足すると、山岳部を中心に活動していたゲリラ部隊と結び付き、モロッコ独立に向けて動き始めます。都市部での労働運動も吸収して勢力を拡大していくと、1953年にフランスはこれを牽制するためにスルタン(モロッコにおける代表権力者)であるムハンマド五世を追放します。ところがこの行為がモロッコ国民を奮起させて一層の混乱を招くと、フランスは自治を返還して1956年にモロッコ王国として独立し、翌年にムハンマド五世は正式にスルタンから国王へと即位しました。
ボウルズがモロッコへ最初に訪れた1931年は、フランス保護国として落ち着きを見せながらも異邦人が行き交うエキゾチックな街でした。幾つもの言語が当たり前のように耳に触れ、国籍や人種も様々な人々が練り歩いていました。そこには彼の創造力を強く刺激する魅力と、圧倒的な信仰対象アッラーの絶対性に、彼は価値観ごと揺すぶられます。その衝撃を受けた後、周囲の国々を訪れながら1937年にニューヨークへ戻ります。「市民ケーン」などの映画監督オーソン・ウェルズや劇作家テネシー・ウィリアムズの舞台音楽を手掛けて作曲家としての立場を確立すると、翌年に劇作家ジェーン・アウアーと結婚します。ともに同性愛者でありましたが、良きパートナーとして公私問わず睦まじく行動し、彼女を介してヘンリ・ミラーと接するなど、さらに芸術の感性を広げていきました。そうして彼女や周囲の作家たちの芸術性に触れるうちに、ボウルズは自身の生み出す音楽に表現の限界を違和感として感じ始めます。彼の生み出す美しい音楽には「自身の描こうとする否定性」を十全に込めることはできませんでした。その苦悩からの脱却を妻が後押しして、ボウルズは今一度、文学の路を歩もうと決意します。想いを馳せるのは爆発的な創造力を生み出す魅惑を備えたタンジールでした。そして二度目にして永住することになったモロッコの地へ、1947年に降り立ちます。
第二次世界大戦争は終わったとはいえ、モロッコ独立運動真っ只中にあったタンジールは動乱の気配はありましたが、ボウルズの求める魅力はそのままに存在していました。サハラ砂漠に単身乗り出し、ホテルの中で執筆するという、できる限りタンジールの魅力を独り占めしようとする環境で熱心に取り組みます。『シェルタリング・スカイ』(天蓋の空)を書き上げると、翌年の1948年にジェーンが合流して、ようやく一つ屋根の下で共に暮らし始めます。そこで生み出された多くの短篇が本作『優雅な獲物』です。この頃にはボウルズの才を聞きつけ、南部ゴシックの一人であるトルーマン・カポーティ、ビート・ジェネレーションの代表作家ウィリアム・シュワード・バロウズ二世、アメリカで同性愛を小説によって肯定的に主張したゴア・ヴィダル、英王室の最後の宮廷写真家でもあるモード写真の先駆者サー・セシル・ヴィートンなど、数え切れぬほどの錚々たる面々がタンジールへ訪れます。傑作をどのような環境下で創り出したのか探ろうと、多くの芸術家たちはその地に辿り着いて見渡します。そこには、多様な国籍や人種による主義にさまざまな思惑、ディルハムとフランが入り混じる乱れた貨幣価値、性の解放と当然の如く存在する数々の売春、戦後からモロッコ独立までタンジールは異様な熱量が凝縮された世界として存在していました。
ボウルズはロストジェネレーション(失われた世代)、ビート・ジェネレーション(ビートニク)の狭間にありながら両方の性質を持つ稀有な作家です。熱狂のパリへ最も遅く乗り入れた作家は、音楽家としての成功を収めながらも表現に至らぬ芸術性に苦悩しました。そして自らをも含めた性の解放と自由、個人主義の強い主張と心奥にある否定性を曝け出して描く筆致は「虚無さえも実存させる」強さを持っています。彼が繰り返し描く主題には、拘束と開放の対比が挙げられます。探究心や好奇心によって侵される「越えてはならない壁」を乗り越えると、一瞬にして襲い掛かる暴力と不条理が身の自由を捕縛して心身を欠損していきます。解放を夢見て耐える不自由のなかに芽生える「存在の否定性」は、永遠に続くとも思われる不安から自己存在的議論へと波及させて「自己の存在意義」さえも疑問視し始めます。しかし語り手が存在して無味乾燥な文体で淡々と進められる描写は、この自己存在の疑問視をより一層に「読者自身が自問する」という視野にまで持ち上げられ、登場人物とは違う質の不安を抱いて悩まされます。これらによって、「世界」とは自己と他者によって結ばれ、自己と他者によって傷付けられる、「接触」こそが「自己存在」であることを明示していきます。
1956年のモロッコ独立に関して、本書の訳者である四方田犬彦が対談で質問した際、ボウルズはこのように答えています。
快楽と危険で包まれた不法地帯は、芸術家にとっては魅力と創造性に溢れていました。アッラーの巨大な絶対性を基盤とした風土は、背徳と浄化を正当視させて芸術表現に魔力を授けます。デューナ・バーンズが1936年に『夜の森』を生み出した熱量も、やはり熱狂のタンジールの魔力が伴っています。芸術家たちが吸い込まれるように集ったパリは、彼らの接触が化学反応して熱狂を生みました。芸術家に魅惑を与えるタンジールは、欲望と野心の接触で生まれた熱狂の街でした。両方の熱狂を文学へと昇華させたボウルズが生んだ作品にも、やはり並々ならぬ熱量が込められているように感じます。
ロストジェネレーション、ビート・ジェネレーション、ともに関心のある方にはぜひ一読いただきたい作家ポール・ボウルズ。なかでも本作のような短篇集には多面的な魅惑が散りばめられています。機会があればぜひ、読んでみてください。
では。
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