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『人形の家』ヘンリック・イプセン 感想

こんにちは。RIYOです。
今回の作品はこちらです。

「あたしは、何よりもまず人間よ」ノルウェーの戯曲家イプセン(1828-1906)は、この愛と結婚についての物語のなかで、自分自身が何者なのかをまず確かめるのが人間の務めなのだ、と言う。清新な台詞と緻密な舞台構成が原点からの新訳でいきいきと再現される。
紹介文より

1879年に世に発表され、今なお全世界で、もちろん日本においても盛んに演じられる『人形の家』。いわゆる「女性蔑視からの解放」をテーマに描かれています。
19世紀末、ヨーロッパでは世紀転換期とされる激しい時代の動きがありました。その中でも「思想の転換」が現代にも響いており、過去の社会が刷り込んだ風習や思想を、「人間」を根源とした見直しが世界的に行われました。これらを先導したのが芸術家たちです。戯曲家イプセンも、その一人でした。

彼が生きた時代のノルウェーはデンマーク支配下にあり、言語もデンマーク語の社会でした。裕福な商家に生まれながらも、7歳のときに家が没落し、16歳で貧しい自活の生活を送ります。彼は元来詩人であり、苦しい生活の中でも書き上げ、世に少しづつ発表していきます。
時が経ち、1851年に「ノルウェー劇場」創設に併せて劇作家の仲間入りを果たします。この創設までのノルウェー演劇は、すべてデンマーク語で行われていたため、本質的なノルウェー演劇は初めてとなります。演劇における真のノルウェー奪還は、自由主義と国民主義の熱が止まぬ社会に向け、ロマン主義で訴えようと試みました。しかしその思いはうまく実らず、経済的にも立ち行かなくなり、わずか6年で閉鎖されました。

その経験は無駄ではなく、シェイクスピアをはじめ偉大な作家たちを研究し、彼の持つ詩的散文能力を併せた作品が徐々に書き上げられていきます。そして彼の演劇に「詩」と共に「リアリズム」が混ざりあい、エネルギーを更に帯び始めます。そして「女性解放」の思想に至り、『人形の家』を書き上げます。しかし発表当初は当時の「不道徳」であり「非常識」であるという批判も多数あり、大きな論争を呼びました。

この作品の主人公ノーラは当時中流貴族の云わば一般的な妻としての扱われ方をされています。夫は優しく紳士的で朗らかで大らか。「ヒバリちゃん」と呼び、大層かわいがります。しかし、彼女が過去に犯した「文書偽造」の罪を握るクロクスタが、夫であるヘルメルの新たな職場の部下にあたり、且つ解雇を予定していると恐れ、ノーラに救いという形で脅しにかかります。また、ノーラの友人であるリンデ夫人も、同じタイミングで現れ、職の斡旋を依頼しに訪れます。

ノーラは、彼女なりの正義に生き、幸福を得ていました。しかし、いざ明るみになり状況を理解すると、夫の「本質的な人間性」が現れます。それは彼に自覚はなく、何に幻滅されたのかさえ理解できません。
人間が自分の人間性を理解していない、つまり「自分自身が何者なのか」を理解していない事の典型であり、ノーラ自身はそうでありたくはなく、「自分自身が何者なのか」を理解するためにラストの行動をとります。

「愛と結婚」がテーマのこの作品は、典型的な二組の男女で描かれます。労苦を耐え、そして苦痛を自身で乗り越えたものが幸福になる。自身の正義を貫き、愛するものを真に愛す、だからこそ幸福を得る。そのような教訓で描かれています。
最後のノーラの行動は賛否ありますが、当時の「妻としてのシンボル」で描かれており、この戯曲全体が社会へ皮肉っぽく表現した芸術であったのだと思います。

イプセンの作品はしばしば「あいまい」で、読者や観客を迷わせる。だが、その「あいまい」さが即ち彼のリアリズムで、主題的にも、文体的にも、イプセン劇が特徴とする重層性は、人間存在のアイロニカルな条件と彼の人間観察の深さに由来するのを知れば、なぜその作品が面白く、彼が偉大なる「演劇の詩人」たり得たかがよくわかるはずである。

訳者の原千代海さんの言葉です。

『人形の家』という作品名も秀逸で、その戯曲演出も見事です。最後の家庭の象徴である「鍵」の存在や演出が、読後に深い余韻を与えます。戯曲に不慣れな方でも大変読みやすい作品ですので、ぜひ読んでみてください。
では。


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